豊受大神宮・外宮
三重県伊勢市山田原 mapfan

宮川を渡る

交通案内
伊勢市駅から西へ10分


祭神
豐受大御神 配祀 相殿神三座(火瓊瓊杵命、天児屋根命、太玉命)
別宮
多賀宮「豐受大御神荒御魂」
土宮「大土御祖神」
  月夜見宮「月夜見尊、月夜見尊荒御魂」
風宮「級長津彦命、級長戸辺命」


由緒

 外宮鎮座の記事は記紀にはない。

 『古事記』巻一 神生み
伊邪那美神火の神を生む際に御陰が焼かれ、病む。尿から若い生産力の神である和久産巣日神が誕生。その神の子が豊受気毘売の神。穀物の神、御食津の神とされる。 伊邪那美神が火之迦具土神を産んで火傷を負い、苦しんで和久産巣日神等を産み、この神の子が豊宇気毘売神。

 『古事記』天孫降臨
  次に登由気神(トユケノカミ)、こは度相(ワタラヒ)に坐(イマ)す神なり。

 登由気神は豊受神、度相とは外宮であるが、この神が天孫降臨に供をしたのかどうかははっきりしない。先に五十鈴宮の事が出てくるので、後世に書き加えられたのかも。

外宮正殿

外宮正殿前の磐座

 『止由気宮(外宮)儀式帳』
 雄略天皇の時代にの夜、天皇の夢枕に天照大御神が立ち、「自分は独り身で淋しいから、朝夕に奉る御饌の神として、丹波国比治の真名井より、等由気大神を迎えよ。」と告げたので、二十九年、この神を度会に遷宮させ、御饌殿を建てて朝夕の大御饌の儀を始めた。

 丹波の海人が漁場を求めて伊勢志摩にやってきて、自らの神を当地に祀ったと云う説がある。

 『丹後国風土記逸文』での「奈具の社」のお話
 真奈井に天女八人が降りて水浴をしていた。老夫婦が一人の衣装を隠したので、天に帰れなくし、養女とした。天女は酒を造ることに長じており、おかげで老夫婦の家は富み栄えた。やがて老夫婦は天女を追い出した。天女はなくなくさまよい奈具の村に到り、留まった。これが竹野の郡の奈具の社においでになる豊宇賀能売命である。
 真奈井とは京都府中郡峰山町久次宮谷の比沼麻奈為神社にゆかりのある井戸だろう。
 奈具の社は京都府竹野郡弥栄町船木奈具の奈具神社

 大三元さん 丹後風土記残欠 から
 【田造郷、と名付けた所以は、昔、天孫降臨の時、豊宇気大神の教えに依って、天香語山命と天村雲命が当国の伊去奈子嶽に天降った。天村雲命と天道姫命は共に大神を祭り、新嘗をしようとした。井(戸)水が忽ち変わって、炊事が出来なくなった。それで、泥(ヒヂ)の真名井という。風土記残欠引用は以上。

 『海部氏本紀』の『海部氏勘注系図』の系譜によれば、外宮を祀った度会氏の系譜として
 天火明命−天香語山−天村雲命−天忍人命−天戸目命−建斗米命−建田背命−淡夜別命(海部祖)−度会 とある。度会氏の祖の海部氏が丹後と伊勢とを行き来した結果、この神が伊勢に祀られたのは伝承通りと見ていい。

 穀物の豊穣の神は稲荷神の宇迦之御魂や豐受大神などがあるか、何故「豊」となっているのだろうか。豊の宇迦之御魂であろうから、本貫の地は豊国だったと言える。『天皇家と卑弥呼の系図』澤田洋太郎著に、国東半島の付け根に日出町真那井の地名が見られると指摘している。『倭名抄』には見えない地名なので、古代からの地名なのか、記紀を知った上で付けた地名なのかは不明だが、豊国には違いないだろう。

 多賀宮  延喜式内大社の高宮
 豐受大御神荒御魂をお祭りする。
 荒魂とは神威の極めて強い現れ方をする魂、新しい魂、若宮。
 高倉山の尾にあたる一段高い場所に鎮座、石段手前に御井があり、下御井神社の跡地がある。

多賀宮

土宮
 外宮の敷地の地主神。宮地神。延喜式神名帳には記載がない。

土宮


風宮
 神風の伊勢と云われるように伊勢の地は風が強い。 この地を去っていった伊勢津彦が祭神であったのかも知れない。

風宮



お姿
 外宮に先に参る慣習があると云う。より地主神の色彩が強い宮であろうが、やはり持ち込まれた神のような気がする。

 やはり広い庭園風の参道には巨木が立ち並ぶ。正殿の前に小さい磐座がある。往古の祭祀場かも知れない。 正殿付近は撮影禁止、回り込んで眺める構造でもなさそうだ。

 背後に別宮が並び、奥の石段を登れば多賀宮(荒御魂)が鎮座、高い場所の宮であろうか。 淡路島の伊弉諾神宮の地座地は一宮町多賀、近江には多賀大社、国生みの神だから高い所の神なのか、それなら、ここの多賀宮は伊邪那岐、伊邪那美の神々とは関係がないのは何故だろう。

正殿 『神社紀行』から拝借


お祭り
  10月15〜17日 大祭

 豊受神の元地いくつか

 賣布神社 摂津国風土記

 真名井神社 籠神社奥宮

 玉造稲荷神社

  参考 『日本の神々6』、『式内社調査報告第六巻』、『天皇家と卑弥呼の系図』澤田洋太郎著

公式外宮

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