蝦夷について

1.「羊」のつく式内社


 尾張国山田郡 羊神社 名古屋市北区 多胡碑に刻まれている羊大夫が立ち寄った縁の地。
  多胡碑は和銅年間に建立。羊大夫は神通力を持つ八束脛との説がある。
 陸奥国牡鹿郡 零羊崎神社 宮城県石巻市 神のおかげで三韓を無血征討できたので、涸満瓊別神(ひみつにさけのかみ)の名を賜り、それが零羊崎(ひつじさき)になったと伝わる。
 両社とも、蝦夷やその居住地であった関東・東北に関連している。

       

2.陸奥・出羽の式内社で蝦夷が祀った神。谷川健一『白鳥伝説』


 陸奥国亘理郡 安福麻河伯神社(あふくかわのかみ) 阿武隈川の川の神を祀った。
 陸奥国桃生郡 日高見神社 日高見水神社とも言い、北上川の水零を祀った。
 陸奥国栗原郡 和我神社 アイヌ語の水を表すワッカ
 陸奥国栗原郡 遠流志別石神社 蝦夷の邑良志別君の祖神を祀る。
 陸奥国膽澤郡 於呂閇志神社
 陸奥国気仙郡 理訓許段神社 アイヌ語の神名 リクは上方、コタはコタンで村・
 陸奥国牡鹿郡 計仙麻神社 ケスは下とか終わりの意味。マは半島。

3.「蝦夷」とは、何か。


 律令国家が設定した異民族のこと。唐の属国にされるのを避けるために、日本国は独立国として東の夷の国と朝貢関係を持っている国であることを主張するのに都合の良い異民族であった。
 日本と言う国号に対応して史書に蝦夷が登場。太平洋側の蝦夷をを夷(い)、日本海側を狄(てき)と呼ぶ。
 『日本書紀』斉明天皇五年 七月、陸奥の蝦夷男女二人を唐の高宗に見せた。天子は蝦夷の 国の方角や種類を尋ねた。倭人「三種類です。遠いのを都我留、次を麁蝦夷、近いのを熟蝦夷と名づけています。毎年、日本の朝廷に入貢しています。」と答えた。

 ○都我留とは、アイヌ語でアザラシの総称で、アザラシの毛皮の交易相手。アザラシはオホーツク沿岸が産地、東北北部に住むツガルは中継貿易者だったようだ。
 東国の先住民であり、全国的には「まつろわに」民であり、武勇の民とされた。

 神武紀 愛濔詩。景行記 瑕夷。雄略宋書 毛人。常陸国風土記 東夷 国巣 都知久母(土蜘蛛) 夜都加波岐  賊 阿良夫流爾斯母 奈良時代 蝦夷 恵比須
 平安以降 恵比須 俘囚 蛮 戒 兇  商

 

4.年表
  倭国 日本国                  東北
 1世紀 弥生時代               人口は少ない。集落も少ない。
 2世紀
                  津軽平野まで稲作が広がる。
 3世紀 倭国女王に卑弥呼。古墳時代に入る。
 4世紀 後半 馬の使用 渡来人増加      会津大塚山古墳等造営。北部続縄文文化広がる。
  四道将軍派遣 大彦・武渟川別の会津で合流。    古墳造営される。
 5世紀     後半から8世紀に人口が流入。
 6世紀     馬飼、雑穀栽培に適する土地に。
 581 アヤカスは泊瀬川で三輪山に向かい水をすすり、朝廷への忠誠を誓った。
 7世紀 蕨手刀、日本各地に分布、東北以北で8割。9世紀まで。
 658 阿倍比羅夫、船180艘を率い齶田(秋田)・渟代(能代地方?)の蝦夷を攻撃
 659 甘檮丘の東の川上に須弥山を造り、陸奥・越の蝦夷を饗応。
  遣唐使派遣。道奥の蝦夷男女二人を唐の天子(高宗)に示す。
 8世紀     津軽平野西端に集落、水田・稲作。
                      稗・粟をアイヌ・アマム 人間の穀物
                      米 シサム・アマム 隣人の穀物
 717 4国の百姓100戸を出羽の柵戸に移す
 720 陸奥の蝦夷が叛乱、按察使上毛野広人殺害される。多治比県守、持節征夷将軍。
 724 多賀城の建設 陸奥国の蝦夷反乱、俘囚を伊予、筑紫、和泉監を移配
 733 出羽柵を秋田に移し、雄勝村に郡を建てる
 737 大野東人が出羽柵と多賀城の直路を献策。 ジページの下の図参照。
 749 陸奥国守百済王敬福より黄金を献上。
 774 三十八年戦争。(811)まで。
 776 陸奥国の兵士3000人に胆沢の蝦夷を攻撃
 784 長岡宮に遷幸(長岡京遷都)
 787 陸奥・出羽の貴族は夷俘の馬などの交易を禁止。馬、昆布、琥珀、鉄、蕨手紋刀
 789 多賀城に諸国の軍を集結し、蝦夷征討を開始するが、敗戦する
  790-794 蝦夷征討
 794 平安京遷都
 9世紀     稲作に適した土地へ流入。
 802 坂上田村麻呂に胆沢城を築造させる、蝦夷阿弖流爲・母礼ら投降。
 837 蝦夷は生まれながらに弓馬の戦争に長けており、十人の平民でも一人の蝦夷にか
  なわないとの報告あり。。どうやら予算要求の作文らしい。
 10世紀     十和田、白頭山の火山噴火。津軽  

 

5、言語について


 朝鮮南部、日本列島、サハリン南部・千島列島に、古極東アジア語と呼べる、日本語、朝鮮語、アイヌ語の共通祖語あった。さらに弥生時代の北九州の言葉がヤマト言葉つながる。
  東日本域からサハリン南部・千島南部にアイヌ語系言語が分布していた。

 

 東日本 東日本縄文語(アイヌ語系)   → 北海道・東北北部 アイヌ語系原語
 西日本 西日本縄文語(やまと言葉系)   → 古墳文化地域 やまと言葉 方言
 琉球周辺 琉球縄文語(やまと言葉系)   → 琉球周辺 やまと言葉琉球方言

6.東北の豪族


 安倍氏 物部氏と摂津の蝦夷(まつろわぬ人)の混血。阿倍野に住んでいた。阿倍引田比羅夫は一族。蝦夷を以て蝦夷を制す典型。大津皇子の二上山埋葬も同じ発想。
  比羅夫は三輪山の南東に住んでいた。疋田物部の祀る乘田神社の鎮座地である。
 安東氏 宇摩志麻治命の臣、安日の裔なり。長髄彦の兄。あびはアイヌ語の火(アペ)。
  先祖は生駒山に居住していたが、奥州の北辺の地に追いやられたとの伝承があった。
 物部氏 外物部。物部であるが、朝廷の味方をしていたわけではない。
 佐伯氏 『常陸国風土記』に、山の佐伯、野の佐伯と出てくる。遮る者。日本各地に置かれた。
  空海は佐伯氏の血。   

7.蝦夷の神  アラハバキ

 衣冠束帯姿で脛巾(ハバキ)をつけた姿で 二体の随神紋像。
 アラは荒栲 ハバキは脛巾 朝廷の御門を守る衛士が脛巾を付けた。
 多賀城前の荒脛神社にはぞうりが奉じられていた。足神扱いである。 

  大三元 paki はアイヌ語で蝦(えび)である。 

 アラハバキの神を門客人神として祀る神社がいくつかある。母屋を取られて軒下を借りているように見える。 

 東北地方ではアラハバキ神社として祀られている場合が多い。  

 多賀城の柵の外側に荒脛神社が鎮座している。外敵退散の神として置かれていた。外敵とは蝦夷である。  

 出羽柵と多賀城の直路沿いにアラハバキの神社が点在している。蝦夷を蝦夷の神で制している。  

 

 アラハバキ 陸奥、出羽 武蔵
 門客人社 客人社  出雲、隠岐 伊予 

 8.古四王神社  

 大彦命が武甕槌神を奉祀し、齶田浦神と称していた。阿部比羅夫が大彦命を合祀し、た。式外社。  

 鎮座神社数  秋田 7  山形 7  福島 5
   殆ど北向き。

 蝦夷の教化のため四天王寺の先進的仏教が利用された。
 寺内鎮守として四天王が持ち込まれ、在地の信仰と結びついた。毘沙門天が重視された。





8.東北は「日本」のルーツか?

 『旧唐書』 945年完成 二十四史の一。

  日本国は、倭国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対 応だったので、中国はこれを疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。

  小国の日本が倭国を併合した。

 『新唐書』(しんとうじょ)は、中国の唐代の正史。仁宗の嘉祐6年(1060年)の成立

  咸亨元年(670年)、遣使。夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号した。使者が自ら言うには、国は日の出ずる所に近いので、国名と為した。あるいは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すともいう。使者には情実がない故にこれを疑う。またその国都は四方数千里だと妄りに誇る、南と西は海に尽き、東と北は大山が限界となり、その外は、すなわち毛人という。

  小国の日本が倭国を併合され、日本と号した。


 日本中央の碑

  千曳神社(ちびきじんじゃ)  青森県上北郡天間林村天間館字菩提木56 祭神は岐の神。
 室町時代のことであるが、蝦夷の住む地をヒノモトと称されていた。谷川健一氏は、その意識は平安末に遡ると言っている。

  西行の歌 みちのくの おくゆかしくぞ 思ほゆる 壺の石ぶみ そとのはまかず

 壺の石文とは、「日本中央」と刻まれた石で、長さ五尺五寸、最大周経七尺七寸である。
 伝承では、坂上田村麻呂がやって来た、この石を地下に埋めて、その上に神社を建てたとた。
 その際、石を神社の場所まで曳くのに、数千人を要したので、千引大明神と言う。

 青森県上北郡天間林村天間館字菩提木 千曳神社「八衢彦命 八衢姫命 」がある。

 昭和十四年、甲地村石文部落千曳の雑木地帯で半分土中に埋まった大石が発見され、、苔をを落とし、拓本を取ると、「日本中央」と読めた。

  日本全体から見ると、千島列島を含めると、青森は中央に当たるが、これは無理筋。
  蝦夷の住む地域、奥州と北海道、これを日本とすれば、青森は中央と言える、


  日下将軍

  平安時代以降、十三湊(青森県北津軽郡市浦村十三)は奥州の豪族の利用する国際港であった。秋田康李は「奥州十三湊日下将軍」と号していた。
  秋田系図には、先祖は、摂津国安倍野生駒に住し、その後、陸奥国に住むとある。安倍貞任はその族なり。古昔、安日王長隋彦兄弟摂津国生駒岳に住す。とある。

 文献
 『蝦夷とは誰か』松本建速 『蝦夷の魂』高橋克彦 『東北 不屈の歴史をひもとく』岡本公樹
 『古代の蝦夷と城柵』熊谷公男 『蝦夷と東北戦争』鈴木拓也 『白鳥伝説』谷川健一

以上

神奈備にようこそ