ウガネット 陸奥出羽

1. 北の人々
 狩猟・採取を主とした先住民の縄紋文化は、北方で大きく花を開き、そこに多くの人々が居住していた。このような文化を(夷)エビスまたは(蝦夷)エミシの文化と見なしていい。 エミシについては、『日本書記』神武紀に、
 エミシヲ ヒタリ モモナヒト ヒトハイヘドモ タムカヒモセズ と言う歌がある。大和近くの夷であろうが、100人力であるが、手向かいもしなで負けた、従順なエビスと言える。夷達は大和王権に組み込まれていき、農耕にも取り組んだ。ここで考えられるのは、夷を弥生文化に導いた指導者がいたのであろうと言うことである。長髄彦や鴨や物部などの古い氏族の長などが考えられる。
 しかし全ての夷が従順で農耕に勤しんだはずもなく、在来の文化を根強く持ち続けて、王権に抵抗」ていたのが土蜘蛛とよばれる住人や東北地方の蝦夷であった。
西南日本にも、大和にも、そのような土蜘蛛がいたのである。

2.大和の土蜘蛛
『日本書紀』神武紀で、大和の国に入って来てから、先住民と出会う。
●:抵抗勢力、  ○:従順。
 菟田県の魁帥 ●兄猾  ○弟猾 
 吉野   ○井光 吉野の首の先祖 
 吉野   ○磐押別の子:吉野の国樔部の先祖
 吉野の西 ○苞苴担の子:阿太の養鵜部の先祖
 宇陀国見丘 ●八十梟帥
 磯城邑  ●兄磯城と八十梟帥  ○弟磯城
 葛城邑  ●赤銅八十梟師
高尾張邑(葛城) ●土蜘蛛 侏儒(ヒキヒト)と相似たり。『魏志倭人伝』又有侏儒国在其南 人長三四尺 去女王国四千余里 に関連があるのか。
 鳥見   ●長髄彦
 層富県波タ丘岬 ●新城戸畔
 和珥の坂本 ●居勢祝
 臍見の長柄丘岬 ●猪祝
神武以前の大和では、長髄彦、物部氏、鴨氏の支配下にあり、外から来た人々と先住民とが調和しながら、暮らしていた。

高天彦神社参道手前の土蜘蛛塚


 
3.陸奥の土蜘蛛・蝦夷
『陸奥国風土記』に見る土蜘蛛。
  八槻と名付けるわけは、巻向の日代の宮に天の下をお治めになった(景行)天皇の時、日本武尊が東の夷(えみし)を征伐しようとして、この地に来て、八目の鏑矢で賊を射て倒し、その矢が落ちたところを矢着(やつき)というようになったことによる。八槻には役所がある。神亀三(七二六)年、表記を八槻と改めた。
 また、古老は次のように言う。昔、この地に八人の土知朱(つちぐも)が居た。一を黒鷲、二を神衣媛、三を草野灰、四を保保吉灰、五を阿邪尓那媛、六を栲猪、七を神石萱、八を狭磯名という。それぞれに一族があり、八ヶ所の岩屋に住んでいた。この八ヶ所は皆、要害の地であった。だから皇命に従わなかった。国造(くにのみやつこ、律令施行以前の時代、朝廷から一国の長官に任ぜられた現地の豪族)の磐城彦(イワキヒコ)が敗走した後は、人々を奪い去る事が止まなかった。景行天皇は日本武尊に命じて土知朱を征伐させた。土知朱は力を合わせて防戦した。また津軽の蝦夷と共謀し、多くの鹿や猪を狩る強弓を石の城柵に連ねて張り、官軍を射た。そのため官軍は進む事ができなかった。日本武尊は通常の弓矢を取って七発、八発と射た。すると七発の矢は雷のように鳴り響いて津軽の蝦夷らを追い散らし、八発の矢は土知朱の八人の首長を射貫いて倒した。その土知朱を射た矢は全て芽が生えて槻の木となった。その地を八槻の郷という。ここに役所がある。神衣媛と神石萱の子孫は許されて、郷に住んでいる。今、綾戸(あやべ)というのはこれである。
八槻には土蜘蛛に慕われた神(後述)を祀る都都古和気神社が鎮座している。

都都古和気神社(八槻)社殿 玄松子氏HPから


 
4.事代主神
 『古事記』の国譲りの段 
ここに大国主神答へ白さく、「僕は得白さじ。我が子、八重言代主神、これ白すべし。然るに、鳥遊・取魚して、御大の前に往きて、未だ還り来ず」とまをしき。故ここに天鳥船神を遣はし、八重事代主神を徴し来て、問ひたまひし時、その父の大神に語りて言はく、「恐し。この国は天つ神の御子に立奉らむ」といひて、すなはちその船を蹈み傾けて、天の逆手を青柴垣に打ち成して隠りき。
事代主神はまさに「鳥遊・取魚」と言う狩猟活動を行っており、後にエビス神として祀られている。祀ったのは漁民が多かった。漁民もまた沿岸に古くから住み着いたエビスであり、天孫に国をゆずっている。漁民達の統率者がエビス神として祀られているのは、早くから大和王権に服従したからであろう。
宮中八神の一柱として事代主神が祀られているのは、国譲りの功績とすれば、それは、大国主神が祀られるべきだろう。事代主神が祀られているのは、夷神として、漁民達を言向けたことだろう。

国史大系延喜式から

5 鴨の神
事代主神は大和でも古くから祀られていた。葛上郡には鴨都波八重事代主命神社、高市郡には高市御縣坐鴨事代主神社が鎮座している。ともに式内大社。葛上郡は葛城とよばれており、元は鴨とよばれていた地域である。また高尾張ともよばれていた。
 大和葛城に高鴨阿治須岐託彦根命神社が鎮座、『古事記』に記載の大御神は二柱あるが、その一つである迦毛の大御神がアヂスキである。事代主神と共に大国主神の御子神とされる。出雲国出雲郡に阿須伎神社同社阿遲須伎神社や仁多郡に三澤神社がアヂスキを祭神としている。大和の高鴨神社の神戸が出雲にあり、アヂスキの伝承が『風土記』に残っている。幼少時は昼夜泣いてばかりであったが川を渡り坂を登り、そこを御坂と名付けたこと、御子神のこと、后神は天御梶日女命であることなどが記載されている。天御梶日女命は天甕津姫命と同じ神と思われる。即ち、天甕星の后神である。そうすると、天甕星とアヂスキは同じ神となる。 はたして本当だろうか?
 天甕星の別名として天香香背男がある。これ「輝く兄・男」と言う意味である。アヂスキの「妹 下照媛」が兄のことを「丘谷に照り輝く者は阿遲須伎高日古根神なり」と歌ったということ。つまり、下照媛の兄・男が香香背男である、と推定できる。更にその歌「天なるや弟織女の頸がせる 玉の御統の 穴玉はや み谷 二渡らす 阿遲須伎高日古根」とも述べて天の川に言及していて天の川がアヂスキの周囲環境であることを示しているようだ、と大三元氏も述べている。

日暮れのオリオン座と金星 宵の明星

6.アヂスキ
 アヂスキはカラスキの神格化したものとも見解がある。主流の見解と思われる。一方、オリオン座のことをカラスキの星と言う。
天津甕星とは三箇星とするとオリオン座と三つ星と言うことになる。
これらからアヂスキと天津甕星はオリオン座の三ツ星と言えそうだ。住吉三神と同じとなる。これは神話の物語とは矛盾する。
 江戸時代の平田篤胤は、天津甕星のことを金星としている。実に興味深い見方と思う。太陽が出る前に東の空で輝き、太陽が沈んだ後でも西の空で輝く、明けの明星であり、宵の明星である。輝き方は鋭い。太陽崇拝者から見るといかにも目障りな星に思える。天照大神と並ぶ大御神であっていい。
 金星のことを太白星と言う。これで思い起こすのは、『梁書諸夷伝』(七世紀成立)には、「倭者は自ら太伯の後と云う。俗、皆文身す。」とあります。
 『史記 卷三十一 呉太伯世家 第一』に、呉の太伯と弟の仲雍は周の大王の王子で、王の季歴の兄。大王は季歴を立てて次の王にしたい気持ちを持っていました。従って、太伯と仲雍の兄二人は荊蠻に行き、文身斷髮を行い、二度と戻ることのないことを明らかにした。太白は王位につかない名前となる。アヂスキにピッタリ、これが蝦夷の支持を受けたのだろう。

7.陸奥のアヂスキを祀る式内社
陸奥國白河郡 都都古和気神社(名神大) 福島県東白川郡棚倉町大字八槻
陸奥國白河郡 石都都古和気神社 福島県石川郡石川町
の二社があり、ここから陸奥国内に17社も勧請されている。都々古別神社や近津神社で祀られている。
さて、都都古和気のツツは星を意味すると見ていい。ツツコワケは星の王子様というような意味だろう。アヂスキを祀る神社は陸奥国が最も多い。出羽とあわせて26社となる。事代主神を祀る神社も多い。夷神を蝦夷が祀ったのであり、鴨の大御神を蝦夷達が祀ったのである。蝦夷は鴨の神を大切にしてきたのである。

 
参考文献
 宮本常一 『日本文化の形成』


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