伊奈波神社
岐阜市伊奈波通り1丁目1番地 its-mo




全景 左は善光寺



元の鎮座地の稲葉山(金華山)、その麓の御手洗池と滝 its-mo



交通案内
JR岐阜駅北へ35分 名鉄新岐阜駅 北西へ30分



祭神
五十瓊敷入彦命 (配祀)渟熨斗媛命 日葉酢媛命 彦多都彦命 物部十千根命

摂社
丸山神社「伊奈波大神」
峯本宮「日葉酢媛命 徳川家康 學神 蠶神」
黒龍神社「高神」
和歌三神社「住吉神 玉津嶋神 柿本人丸」
吉備神社「吉備津彦命」
大行事神社「市隼雄命」
后御前神社「毛里倫滿女」
品部(とものみやつこ)の神を祀る 楯縫部神社、倭文部神社、神弓削部神社、神矢作部神社、大穴磯部神社、泊橿部神社、玉作部神社、神刑部神社、日置部神社、太刀佩部神社
兒御前神社「擁烈根命」
祖曾路神社「卜笙博士」

二の鳥居



由緒
  「伊奈波神社に伝わる縁起によると、五十瓊敷入彦命は、朝廷の命を承けて奥州を平定したが、一緒に同行した陸奥守豊益は、五十瓊敷入彦命の成功をねため、一足先に都に帰り、命が帝位をねらっていると讒奏したため、朝敵として攻められて、この地に居たり討伐された。
と云う。

 『日本書紀』によると、五十瓊敷入彦命は茅渟池を造ったり、菟砥の川上宮で剣一千口を造り、石上神宮に納め、神宮の神宝を掌ったとあり、その後、「自分は年をとったので、神宝を掌ることが出来ない、大中姫がやりなさい。」と云ったことになっている。大中姫も出来なかったので、物部十千根大連に治めさせたとある。
 墓は、泉南の宇土古墳とされている。
 剣一千口を造り石上神宮に納入した時に、十種の品部を賜ったとあり、そっくり美濃の伊奈波神社の摂社に名を連ねている。伊奈波神社には五十瓊敷入彦命が祀られており、近所には妃、御子を祀る神社もあり、品部の神を祀る神社もあるのは、当地での何らかの縁があったものと思わねばなるまい。ともすれな正史とされる『日本書紀』を基本に考えてしまうが、皇位継承者が継承していないとの格段の場合には、正史には一層の警戒が必要だろう。  

 皇位継承者の東国行きの物語は、豊城入彦命、五十瓊敷入彦命、日本武尊と三代も続くし、武渟川別を四道将軍としても派遣している。東国の平定には成功したとなっているようだが、王権としては大古より苦心をして力を尽くしてきた、また現在まつろわないのは反逆である、まつろわしたらそこは王権家の支配下であると『日本書紀』は云いたいのであろう。

 旧地は稲葉山(金華山)の麓だったようで、その名残が御手洗池である。 天文八(1539)年、斎藤道三が稲葉山を居城にするに当たり、現地に遷したと伝わる。

 『延喜式神名帳』美濃國厚見郡に物部神社の名が見える。これも、斎藤道三が稲葉山麓の岩戸にあった物部神社を遷座後の伊奈波神社に合祀したものと伝えられているそうだ。

神門


伊奈波神社略由緒 平成祭礼データから

当社の祭神・主神は、五十瓊敷入彦命(垂仁天皇の第一皇子に坐す)、配祀神に淳熨斗媛命(主神の妃君に坐す)、日葉酢媛命(主神の母君に坐す)、彦多都彦命(主神の外祖父に坐す)、物部十千根命(主神の功臣に坐す)を奉斎する。主神は、英邁勇武に坐し頑愚強暴良民を悩ます東夷を征して教化を布き、又地方の産業開発には特に意を用いて濃、尾、摂、河、泉、和の広い地域に亘りて池溝を通じて水利を図り、農業を奨励して民生の安定、福利増進に尽し給うた。又鍛(かぬち)河上を喚して剣一千口を作り大和国石上神宮に納めて有事に備え国土の治安維持に任じ給うた。最近神徳を慕って土建、交通、水利、ダム関係の参拝者が非常に多い。御鎮座は、景行天皇十四年、命の偉徳を偲び武内宿禰をして椿原の地(今の岐阜公園丸山の地)に鎮斎せしめ給うたのが始まりで、今から約一九〇〇年以前のことである。降って天文八年斎藤秀龍(道三)稲葉山を居城とするに当り現社地に遷し奉った。昭和十四年十一月一日国幣小社に列っせられ、社頭の殷賑は年と共に加わりつつある。
以上



黒龍神社



お姿
天文八(1539)年、斎藤道三が稲葉山を居城にするに当たり、現地に遷したと伝わる。
 現地は稲葉山、今は金華山と呼ぶが、南につならる山系の谷間であり、至る所水が流れている。
境内表示板に書いているが、黒龍神社「高神」が元々鎮座していた場所に被さったようである。高神の居場所にこそふさわしい立地に思える。磐と水の谷間である。

 大きい神社で、鳥居、神門、摂社群、社殿、いずれも雄渾な雰囲気。

吉備神社

お祭り
 
 4月 5日 1日間 例大祭 [通称]岐阜祭

拝殿

公式伊奈波神社

物部氏ホームページ

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