旭神社
大阪市平野区加美正覚寺1-17-30 its-mo

南側の入り口 東西に大きくない鳥居がある。


交通案内
JR大和路線平野駅 北出口より東へ500m



祭神
旭大神(素盞嗚尊、旭牛頭天王)
合祀 天照大神、春日大神、堅牢地神、諏訪大神、公守大神、勝手大神、丹生大神、嶋戸大神
摂社 若宮八幡宮

本社拝殿は向かって左 中央は神木の銀杏 右は摂社若宮八幡宮



由緒

 播磨の広峰牛頭天王は天平五年(733年)に社が出来たが、当旭牛頭天王も同じ頃に加美郷の地神として祀られたと伝わる。
 丹生大神ほかが合祀されている。

 元の鎮座地は当社より東二町の宮の下にあったが、当地に鎮座していた若宮八幡宮の境内に遷座、産土神である当社を主とし、若宮八幡宮を摂社となした。
 『大阪府全志』から
 この若宮八幡宮の縁起によれば、天平勝宝六年(754)八月、風雨月を越えて止まず、八幡宮の神託に、櫛司と橘を水上より流し、其の止まりたる所に神を祀りなば、水難を止め農民を安穏ならしめんとありしかば、大和・河内の国境より其の二品を流させ給ひしに、智識寺の山上より西北に分れて流れ、櫛司の止まりし所に神社を祭りて玉櫛明神(津原神社)と称し、川名を玉櫛川と呼べり。又、橘は渋川郡に流れて此の賀美郷の川中なる小島に止まりければ、其の地を橘の小島と呼び、東大寺の八幡宮を勧請して若宮と仰ぎしもの即ち当社にして、橘を神木と定められ、当時太上天皇も御幸ありしとの伝説あり。爾来雨を祈りて霊験ありければ、雨乞の宮と唱へて崇敬せられ、神前の橘も常磐の色を変えず子葉孫枝繁茂して芳香を放ちしとならん。以上。

 近くに住んでいた綿屋が商用で狭山に行ったとき、狭山池のほとりに美しい娘が悲しそうな顔をして立っていた。声をかけると、「実はこの池の中に恐ろしいものが落ちているので、取り除いてほしいのですが、どなたさまも引き受けてくれません。」と訴える。綿屋は、「そりゃ気の毒に、こんなに深い池ではどなえもなりへん。」と言うと、「いいえ、水は私がなんとかします。」と着物を着たまま池に飛び込んだ。みるみる池の水は干上がってしまった。見ると池の底にピカピカ光った鍬が一本落ちていた。こんあもんかいな、と拾いあげて捨てると、娘は再び現れ、「御礼に何でも差し上げます。」と頭を下げる。「なんにもほしゅうはないが、村では干魃が続いて綿や稲が枯れてしまいことがある。そんな時に雨が降る方法があったら教えてほしい。」と頼みました。「おやすいごようです。」と娘はにっこり笑って、胸の中から鱗を三枚出してきて、「これを村の鎮守様に納めて、お困りの時にお祈りして下さい。」 綿屋は村に戻ってから、若宮八幡に奉納、以来、祈雨の霊験あらたかで、村は繁栄した。『大阪伝承地誌集成』から。

 平野郷は九世紀の初め、坂上田村麿の次男、広野麿が杭全荘を所領とし、広野が平野に転化したと伝えられるがもとより定かではない。平野郷は環濠集落で有名であるが、旭神社の鎮座する加美正覚寺地区も環濠集落で神社の北と西と道はその名残である。濠の出入り口を守っていた地蔵尊が今も残っている。
 平野川から船で天満大阪に酒、繰綿などの平野の産物を運んだ船が柏原船と呼ばれた。この神社の本殿腰板に保存使用示されている。

 

お姿
  3月は大相撲大阪場所があり、この社域に友綱部屋が部屋を借りている。
 大きい楠木ほか樹木が多い。イチョウが神木となっており、橘はあるとは聞いたが、確認できなかった。
 平野に歴史の散歩道が設けられており、旭神社や隣の加美正覚寺跡や杭全神社などを通っている。

神社の西側の銭湯の煙突「橘湯」 橘の痕跡 トホホ

若宮八幡宮の本殿



お祭り
例祭 10月15日,16日


丹生都姫伝承
神奈備にようこそ