UGA皇后

【婚姻】
 『魏志倭人伝』には、「大人皆四五婦下戸或二三婦」とある。男女比率が一対四位なら理解できるが、そんなことになるはずはない。一夫多妻制ではなく、多夫多妻制というべきだろう。
 大王家の場合も基本的には多夫多妻と見てもいいのだろう。「皇后位」は律令時代に規定された「位」であり、それ以前の事としては『日本書紀』では、次期天皇を生んだ姫を皇后としているようだ。

 婚姻とは当事者の意向と性関係で決まり、男が通わなくなって3月以上で離婚となるのが普通。
 全てが妻問い婚とは限らず、夫のもとに身をよせる婚姻も多かった。
 生まれた子供の養育は、女の親族による相互協力で行われていた。
 皇后は宮中に住んでいるようだが、妃は外に置かれている。しかし垂仁皇后の狭穂姫は来目高宮。
 皇后位についた女性は同居同衾がなくなっても、死ぬまでは皇后とされていたようだ。
 婚姻の目的は一族の勢力拡大につなげたいとの思いがある。



【皇后】 皇后 X先天皇との親等、皇子女  妃 皇子女   先天皇との親等 1皇女  2孫娘  3曾孫

崇神 大彦命の娘の御間城姫2 垂仁天皇 妃 遠津年魚眼眼妙媛 荒河戸畔の娘 豊城入彦

垂仁 日子坐王の娘の狭穂姫2 誉津別 兄の狭穂彦王が謀反を企て、共に焼死した。
丹波道主王の娘の日葉酢媛4 景行天皇
妃 日葉酢媛の妹達3人 5人目の竹野媛を返した。竹野媛は恥じて弟国で自殺した。

景行 若建吉備津日子の娘の播磨稲日大郎姫2 大碓命、小碓命(日本武尊は仲哀天皇の父)
美濃八坂入彦皇子の娘の八坂入媛2 成務天皇

倭武天皇 『常陸国風土記』后:大橘比売は穂積氏忍山宿禰の娘
日本武尊 『日本書記』垂仁天皇の娘の両道入姫皇女1 仲哀天皇

成務

仲哀 開化天皇の曽孫、気長宿禰王の娘の気長足姫3 応神天皇   
妃 大中媛 カゴ坂皇子、忍熊皇子

息長帯比売天皇 『常陸国風土記』、『摂津国風土記逸文』

応神 品陀真若王の娘の仲姫3 仁徳天皇
  妃 皇后の姉高城入姫 大山守皇子
妃 和珥氏の娘の宮主宅姫 菟道稚郎子皇子
妃 河派仲彦の娘の弟姫 稚野毛二派皇子

宇治天皇 『播磨国風土記』 菟道稚郎子皇子

仁徳 葛城襲津彦の娘の磐之姫5 履中天皇、反正天皇、允恭天皇(允恭は疑わしい。)
菟道稚郎子皇子の同母妹の八田皇女1   
妃 日向髪長媛 大草香皇子、草香幡梭皇女

履中 仁徳天皇と日向髪長媛の娘の草香幡梭皇女1   
妃 葛城の葦田宿禰の娘の黒媛 磐坂市辺押羽皇子

反正 大宅臣の先祖の木事の娘の津野媛を皇夫人とした。高部皇子。

市辺天皇 『播磨国風土記』 市辺押羽皇子 蟻臣 媛 顕宗天皇、仁賢天皇
妃 衣通郎姫 皇后の妹

允恭 応神天皇の皇子の稚渟毛二岐皇子の娘の忍坂大中姫2 木梨軽皇子、安康天皇、雄略天皇
允恭天皇は葛城の玉田宿禰を滅ぼしている。磐之媛の御子ではなかろう。

安康 中蒂姫(なかしひめ)1 履中天皇の娘で大草香皇子の妻で眉輪王を生んでいた。

雄略 草香幡梭皇女(履中天皇の后と同じ女か)1 妃 韓媛 葛城円大臣の娘 清寧天皇
妃 吉備上道の娘 磐城皇子、星川皇子

清寧

顕宗 難波小野王3 允恭天皇の曹孫

仁賢 雄略天皇の娘の春日大郎皇女1 武烈天皇、手白香皇女。 手白香皇女は継体天皇の皇后で欽明天皇を生む。

武烈 春日娘子 不詳。

さまざまな后たち(神武〜武烈)
【タフガイ天皇】 【多産皇后】 【皇后の過去の天皇との距離】人
后 妃 数 トップ 5 人 生んだ皇子皇女数ベスト5 人 皇女 5
応神 10 八坂入媛(景行) 13 孫娘 5
垂仁 7 忍坂大中姫(允恭) 9 曾孫 3
景行 7 春日大娘皇女(仁賢) 7 四代孫 1
開化 4 御間城姫(崇神) 6 五代孫以上 1
仁徳 4 日葉酢媛(垂仁) 5 計 15


神功皇后について


【神功皇后の伝説】


0.『日本書紀』編者は卑弥呼にも例える。
1.天之日矛命の末裔伝承
2.香椎宮の神託、巫女女王伝承
3.新羅征伐
4.皇子の出産伝承
5.香坂王・忍熊王の討伐
6.気比大神参拝
7.酒宴
8.住吉大社神代記 密事


 三輪王朝(纏向イリ・佐紀タラシ)は周辺の豪族に囲まれていた。大和南部に葛城、紀伊、また山代南部に息長氏、近江の和珥氏がいた。大和に王権を築くには有利に働いたが、次の発展の足枷ともなった。
 そのため、瀬戸内への出口の河内方面には王家の将軍が派遣され、半島出兵などを司っていた。
 河内に派遣されていた将軍が息長氏の娘が生んだ誉田別命であった。彼がクーデターを起こした。
 呪術的な旧来の政の香坂王・忍熊王は、武力的な新興勢力には到底歯が立たなかった。


1.天之日矛命の末裔伝承
天之日矛ー多遅摩比多訶ー葛城高額比売┐ 『和名抄』葛下郡高額郷
                  息長宿禰王−┴息長足比売
 多遅摩比多訶を祀る神社 但馬国出石郡 日出神社、日足神社 日とは何だ? 『住吉大社神代記』には、「大八島の天の下に日神を出すのは船木の遠祖、大田田神なり。」とある。これは神功皇后を乗せた船を造った神のこと。即ち、日神は皇后のこと。
 記紀の頃の天皇家の認識として、天皇家は遠祖の応神から継体につながる王家の末裔との認識ががあった。
 遠祖応神は新羅からの渡来人の血をひいているとの伝承は天皇記国記に記載された動かし難い事実であったのだろう。

葛城高額比売の娘が息長足比売 → 葛城の鴨の下照比売の娘が阿迦留比売
阿迦留比売とは香春神社の祭神の辛国息長大姫大目命である。香春神社の側に鏡山がある。

『豊前国風土記逸文』田河の郡。鏡山。昔、息長足姫尊、がこの山にいらせられて、はるかに国状をご覧になり、祈って申されるのには、「天神も地祇も、私のために幸福を与え賜え。」と。
 香春の神の名前は、姫の訪問を契機に現在の神名になっていったのだろう。

『播磨国風土記』 品太天皇の動き
 飾磨郡 安相里 品太天皇が但馬から巡っておいでになった。何故但馬か。
天日槍命が巡幸した郡 揖保郡、神前郡、宍禾郡
品太天皇が巡幸した郡 飾磨郡、揖保郡、神前郡、託賀郡、賀毛郡。

播磨の中央部で、但馬から瀬戸内海までの郡。

 品太天皇は半島からやって来たとの伝承は、天日槍命−但馬−品太天皇の流れをストレートに解釈したのだろう。



2.香椎の宮神託、巫女女王伝説
 女神オオタラシヒメの住処は香椎宮。宇佐の大帯姫廟神社は香椎宮からの勧請である。
 香椎宮には住吉大神も祀られており、オオタラシヒメが神の霊威で異国を平定する伝承があったか。

『日本書紀』巻八仲哀天皇二年(癸酉一九三)六月庚寅
皇后は角鹿から出発。船上で食事をされた。鯛が沢山船の側に集まった。皇后が酒を注ぐと、鯛は酒に酔って浮かんだ。漁人は喜んで、「聖王のくださった魚だ。」と言った。
→ ワタツミの女神 伝承。

『日本書紀』卑弥呼が魏国に遣いを出したことなどを神功皇后の仕業として記述している。神功皇后の外交上の伝承としては、朝鮮征伐が残っていたのだろうが、大陸との交流は残っていなかったので、卑弥呼の活動を拝借したか。



3.新羅征伐物語り 風土記にこれだけ記載されているのは、民間伝承としての痕跡ではなかろうか。

『常陸国風土記』行方郡 息長帯日売皇后の時、この地に古都比古と名のる人がいた。三たび韓の国に派遣されたので、その功労を重く見て田を賜った。

『播磨国風土記』飾磨郡 因達と称するのは、息長帯比売命が韓国を平定しようとして御渡海なされた時、御船前の伊太の神がこの処においでになる。

『播磨国風土記』揖保郡 宇須伎津と名付けるわけは、大帯日売命が韓の国を帰順させようとして海を渡っておいでになるとき、御船が宇頭川の泊に宿られた。「大帯日売命」の名は記紀には出てこない。ここで息長帯比売命とつながる。

『摂津国風土記』 美奴売は神の名である。息長帯比売天皇が築紫の国においでになった時、この神は「私の住んでいる山の木で船を造るがよい。」と言われた。この神の船は新羅を征伐した。

『筑前国風土記』 気長足姫尊が新羅を討とうと思って兵士を整備して出発された時に、道の途中で兵士が逃亡してしまった。祟っている神は大三輪の神だった。神の社を立てて新羅を征服した。

『日向国風土記』 吐濃の峰に神がおいでになる。お迎えして御船に乗せて船の舳先を護らせた。
新羅を討ち取った。

『倭王武の上表文』 昔より祖禰先自ら甲冑を着て山川を渡り、休むこともなく、東は毛人五十五国を征す。
西は州夷六十六国を服し、渡って海北九十五国を平定した。
 五世紀半ばには、上記のような伝承が大王家にあった。海北平定とは朝鮮半島に当たる。4世紀後半にには高句麗好太王碑には高句麗軍と倭国軍との戦いが記録されており、応神以前の出来事。

 これがオオタラシヒメ、神功皇后の新羅征伐伝説になったか。



4.皇子出産
『古事記』仲哀記
皇后の御腹の中の皇子が生まれそうでした。そこでお腹を鎮めるために石をお取りになって裳の
腰につけ、築紫の国にお渡りになってから、お生みになりました。

『日本書紀』巻九神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年十二月辛亥 後の応神天皇を築紫で産まれた。

『筑前国風土記逸文』息長足比売命が新羅を討とうと・・・二つの石を裳の腰にはさんだ。凱旋後産む。

『万葉集巻三三 813』山上臣憶良が鎮懐石を詠める歌

かけまくは あやに畏し 足日女(たらひめ) 神の命 韓国(からくに)を 向け平らげて 御心を 鎮めたまふと い取らして 斎(いは)ひたまひし 真玉なす 二つの石を 世の人に 示したまひて ・・・

『鎮懐石八幡宮』卵形の美石二個を求めて肌身に抱き出産の延期を祈られたのであった。
→ 水辺の少童と母神 伝承   異常出産の海童神、始祖王 伝承
→ オオタラシヒメ  子を育てる母神の意味があると言う。

対馬の住吉神社の祭神は鵜草葺不合命と母神の豊玉姫命である。住吉神である筒男をはじき飛ばすほど、母子信仰の強いお国柄であった。これが応神天皇と神功皇后の話に発展して行った可能性がある。



5.香坂王・忍熊王の討伐
『日本書紀』巻八仲哀天皇二年(癸酉一九三)正月甲子《十一》
 氣長足姫尊を皇后とした。これより先に、叔父の彦人大兄の娘の大中姫を妃とし、カゴ坂皇子。忍熊
皇子をもうけた。

『日本書紀』巻九神功皇后摂政元年
 皇后は武内宿禰と和珥臣の祖武振熊に命じて、忍熊王を討たせた。宇治から近江に追いつめた。
→  いわゆる三輪王朝(纏向イリ・佐紀タラシ)を倒し、河内王朝(ワケ)への政権交替である。
奈良市押熊町に、香坂王子・忍熊王子の蹟地と墓がある。
兵庫県宝塚市中山寺の奧院は忍熊王と物部守屋の鎮魂が行われている。
鹿児島県肝属郡田代町に鎮座の二本神社の祭神は、忍熊皇子 香坂皇子 大仲津姫命である。

大型古墳の造営場所は、佐紀古墳群から河内の古市・百舌鳥古墳群に移っていく。

葛城では、鴨氏の勢力が衰えて、葛城氏が力をのばしてくる。大和では古い神々である三輪や鴨の神々が衰退していく。神功皇后には三輪の神は祟ったが、『紀』にはないが、雄略朝になると、三輪の神を捕獲したり、葛城の神を島流ししている。

6.気比大神参拝
 応神を応援する豪族は越前国敦賀を掌握していた豪族に和珥や息長一族がいたのだろう。後の継体擁立の豪族達である。  
 気比大神の伝承は息長氏に伝わっていた伝承か、息長氏の創作になるものかも知れない。ホムツワケ王子の出雲大社参拝の物語りの二番煎じ。
 また、息長帯姫の九州への出発も敦賀であった。天日矛之命の通ったルートでもあり、縁が深い。

 

7.酒宴
 気比から帰った時、母の息長帯日売命が待酒を造って献上しました。その時にお詠みになった歌。
この御酒(ミキ)は 我が御酒(ミキ)ならず 酒(クシ)の司(カミ) 恒世(トコヨ)に坐(イマ)す 石(イハ) 立(タ)たす 少名御神(スクナミカミ)の 神(カム)寿(ホ)き 寿(ホ)き狂(クル)ほし 豊(トヨ)寿(ホ)き寿(ホ)き廻(モト)ほし 献(マツ)り来(コ)し御酒(ミキ)ぞ あさず食(ヲ)せ ささ

 息子を歓迎するには喜びすぎのような歌、孫じゃないかな・・。

8.住吉大社神代記 密事の記事あり。
仲哀天皇が死んだ後、皇后と住吉大神には密事がある。俗に言う、夫婦之密事。 むつびごと。
住吉三神に共通の名に筒男。筒とはリンガの意味か。筒は竹。竹内宿禰か。父親の行動。
塩筒老翁のイメージと竹内宿禰とが重ねる雰囲気がある。
神には後裔の氏族がある場合が多い。所が住吉三神には後裔がいない。大王家が祀っている。

 なお、暴力団で言うツツは女性器のことで、ツツモタセ(美人局)などに使われている。

延喜二十一年筥崎神託 誉田別命 其故者香椎宮波我母堂。住吉宮波我親父也。

【神功皇后の年代】


『神功紀』には、百済や新羅との交流、また『魏志倭人伝』の引用もあり、年代を見ることができる。

イ 神功39年 『魏志倭人伝』によると、明帝の景初三年(239)に難斗米を派遣とある。
→ これから計算すると、神功元年は201年となる。崩御は69年、西暦269年。

ロ 神功64年 百済国の貴須王が薨じ、枕流王が王となった。『百済本紀』では384年のこと。
→ 神功元年は321年となる。崩御は389年。応神元年は390年。

神功皇后の記述には、二つの年代がはめ込まれている。
  201        269              321        389
←神功 イ の期間→ ←ブランクの期間→ ←神功 ロ の期間→
イ と ロ との差は120年。


卑弥呼の歴史 「イ」
   190 成務天皇の末年になる。卑弥呼の共立
   201 神功皇后元年
   203 神功皇后三年 誉田別皇子を立てて皇太子とした。
   213 神功皇后十三年 武内宿禰に命じて皇太子に従わせ、敦賀の笥飯大神にお参りさせられた。
   250 神功皇后50年 卑弥呼の死去
     266 神功皇后66年 台与朝貢 晋の武帝の泰初二年、倭の女王が貢献したとの記事。

→ 卑弥呼時代の途中から台与の前半期が記録されている。初期の巫女王に比定されている。神功紀に出てくる誉田別皇子は、「イ」の場合には、後の応神天皇のことにはなりえない。よく似た名前の始祖王がいる。垂仁天皇の皇子で誉津別命である。出雲大神にお参りをし、『上宮記』では、継体天皇の祖とされている。彼であれば、神聖王が巫女王から男王に切り替わった初代男王の可能性がある。


百済との交流 「ロ」
七枝刀 神功52年(372) 百済は七枝刀一口、七子鏡一面を奉じる。『百済本紀』記載なし。


応神天皇の紀年 『日本書紀』応神三年 百済国の阿花王即位  三国史記 東国通鑑 には392年のこと
→ 応神元年とは390年、これはロの神功末年の翌年であり、符合している。

参考文献
『神功皇后と天日矛の伝承』宝賀寿男
『神功皇后伝承の研究』塚口義信
『日本書紀の真実』倉西裕子

宇賀網史話

神奈備にようこそ