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和歌山市伊太祈曽
交通案内
祭神
由来
また素尊を台風神とし、五十猛をその分身としての猛烈な台風神とする説がある。*2 メソポタミアの暴風神はインダルと呼ばれる。 平成8年の12号台風のコース はこの神が祀られている地域をうまく通っている。島原、有明、筑紫、丹波、佐渡、陸奥である。 西暦1223年に書かれた「上ツ記」に神宮文字(最古の日本文字)を撰したのが五十猛命とされている。*4 紀の国の大神の交代
ここより西の吉礼貝塚が山東が海岸沿いであったことを物語る。東の大池も縄文遺跡が多く、古代より山東が拓かれた地域であった事をうかがわせる。 また伊太祈曽には和田川が流れており、これは和歌山内中部に入り竈山神社付近を流れている。昭和30年頃まではよく氾濫し、床上浸水等は多かった。 上古にはこの水神の神威は北部平野にまで及んでいたと推定されている。紀の國造が国懸神を掲げて社地の交代を迫り、更にはこの地域の宗教的統一を図るべく日前神国懸神との競合を畏れて朝廷に分遷を願い出たのであろう。 しかし未だに紀北の人々の間では伊太祁曽神への篤い信仰は衰えていない。 紀州志略 江戸時代の紀の国名草の伊太祁曽神社も経営が苦しかったと見え、日を抱くから天之手力男や、伊勢山田風の宮、また泉州や河内方面に信者をふやそうと河内国岩堀明神と称したりしている。 木の神
伊太祁曽神社の歴史レジメ お姿
戦前の伊太祁曽神社と神杉 作者はこの絵の下に描かれている鳥居の横で生まれ育ちました。 勿論江戸時代ではありません。 この絵の中にご先祖がおられる様な気がします。
お祭り
献詠歌 本居大平 天[あま]なるや八十[やそ]の木種を八十国にまきほどこしし神ぞこの神 関連する神社 須佐神社 素戔嗚尊 (紀勢線簑島駅バス田村湯浅行き千田下車1分)*3 ほか
典型的な鎮守の杜 五十猛命、大屋津比賣命、都麻津比賣命 旧社地を取り囲む様に鎮座する五十猛命兄妹神を祀る式内社の論社 参考文献 |
Traffic Guide
Dedicatee Origin Place changes of Shrine
Idakiso Spirit of trees
View Festival Family shrine
Gion-sha Spirit Susa-no-wo
*1 Nihon no kamigami(Matsumae
Takeshi) |
和歌山市宇田森59 mapfun
祭神
配祀神社 伊太祁曽神社「五十猛命」、抓都姫神社「抓都姫命」 この大屋とは豪族の意味があり、大屋の科(おおやのけ)とは豪族の生活費のことで、「公け」である。地名の話(谷川健一、尾崎喜左雄)平凡社より。 由緒
なかでも大屋都姫命は住宅、船、車、木具、薪炭など木製品の守護神として崇敬さている。 当社古くは五十猛命、柧都姫命とともに日前宮の地に鎮座するも、垂仁天皇16年、伊太祈曽村に遷座し、文武天皇御宇、太宝二年(702年)三神を3所に分遷したとき北野村古宮の地に遷り、更に今の宇田森神ノ木の地に遷座される。 お姿
神奈備
お祭り
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和歌山市北野 ゼンリン
祭神
由緒
和銅六年(713)に、山東の亥の森に鎮座していた五十猛命、大屋都姫命、柧都姫命の三神が分遷され、大屋都姫命は先ず当地に遷座ようだ。当社古由によれば、遷座地は宇田森の北五十計の北野村内の御祓い山である。後に、現在地である宇田森に遷座している。
「この山は大屋都姫神社の所有物でしょうか?」との質問には、「そうだと思う。買いに来ましたか?」との逆質問、どうやら今は筍でも椎茸でもスペースを自由に使っているのかも知れない。買われたら困るのだろう。
なかでも大屋都姫命は住宅、船、車、木具、薪炭など木製品の守護神として崇敬さている。 お姿
宮司さんの情報によると、お祓い山の西に新池と言う池があり、その東側に大和御前社の小さい祠があり、10年ほど前まではそこで祀られていたようだ。 小生も、大和御前社の東の小高い所と読んでいたので、現在の再建された大和御前社の東の史跡らしい所を探索して、上野廃寺跡を山中で発見、てっきりこれだと思いこみ、HPに仮アップしていた所、大屋都姫神社の宮司さんから、御祓い山だよ、とご指摘を受け、再度の探索に及んだ次第。 お祭り
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和歌山市園部1580 ゼンリン 交通案内
祭神
由緒
神功皇后の半島遠征の時、この神が船に祀られたと播磨風土記にある。*1 現在は紀ノ川の北側に鎮座しているが、その昔は南側の志摩神社の場所に祀られていたと伝えられている。 遷宮の時期・理由については分からないが、伊太祁曽神社の秋月からの移転と関係あるのかもしれない。 地名の有功(いさお)は五十猛命の別名の有功の神の意である。 お姿
神武天皇の長男(綏靖天皇の兄)が御祭神に入っているからか、手入れの行き届いた印象を受ける神社である。氏子諸兄の日頃の努力のたまものであろう。 お祭り
関連する神社
*2 和歌山県の歴史散歩(山川出版社) |
和歌山市平尾957 ゼンリン 交通案内 紀伊国名所図絵から
高積神社 (吉礼)都麻津姫神社 |
和歌山市吉礼911 ゼンリン 鳥居
都麻津姫神社 吉礼津姫命神社
紀伊国名所図絵から
高積神社 (平尾)都麻津姫神社 |
和歌山市禰宜1557 上宮its-mo
交通案内
上宮が紀ノ川下流の神奈備山である高積山の頂上にある。いつ頃からか、伊太祁曽三神を祀ったとされ、高三所大明神と呼ばれたようであるが、高積比古神社、高積比賣神社に比定するのが自然。『式内社調査報告』もその見解である。 高積山の北側が和佐関戸であり、この地に妻御前社が鎮座していた。祀神は都麻津姫命とされる。五十猛命と大屋都比売を配祀している。また下宮の地は気鎮社であったようだ。
下宮の拝殿
下宮の本殿
(平尾)都麻津姫神社 (吉礼)都麻津姫神社 |
和歌山市和佐関戸405木村さん ゼンリン の東向かいのミカン畑
交通案内
その後の文武天皇の頃、伊太祁曽三神の紀伊国における勢いが強く、紀氏の祀る日前国縣大神が相変わらず影が薄い存在であった。従って、紀国造の紀直は、伊太祁曽三神を分祀するべく朝廷に働きかけ、三神分祀の勅命を勝ち取った。大屋都姫と都麻津姫はそれぞれ、伊太祈曾の地から離れた。 大屋都比売は名草郡平田荘に鎮座の大屋都姫神社(現在は和歌山市宇田森)であることに異論はない。一方、都麻都姫の分祀先は不明であり、式内大社の都麻都比売神社の後裔社も定まっていない。『式内社調査報告』での論社は以下の二社。いずれも伊太祁曽神社に近すぎる。分祀の趣旨にあわない。
また和歌山市祢宜の高積神社は、延喜式内社の高積神社の後裔社とされているが、神社側と和佐地域の郷土史家の間では、都麻都姫神社の論社であると主張しており、「高積」とは、高宮とか高大明神と呼ばれたので付会されたとの立場である。名誉ある高積の名を捨てても都麻都姫に肩入れしたいのが紀州人の心意気であることは事実だが、歴史的には次の考え方が正しいものと思う。 和歌山市和佐関戸の妻御前社こそ都麻都比売の分祀先であった。平尾の都麻都比売神社は妻神戸の地なるが故の妻御前社であり、吉礼はその勧請社と見る。 平田と和佐関戸と伊太祈曽とはほぼ等距離であり、かつ古代の街道である熊野古道沿いにある。このような観点から関戸の妻御前社が分祀先と見る。 ここには後に五十猛命と大屋都姫が勧請され、三社とも兄弟姉妹の神々を配祀するようになった。明治末期にこの妻御前社は高積神社に合祀された。 その後も妻御前社を祀る人々は講を形成し、今日まで祭りを絶やしていない。
(平尾)都麻津姫神社 (吉礼)都麻津姫神社 (禰宜)高積神社 |
和歌山市金谷692 ゼンリン
交通案内
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和歌山市大川48 ゼンリン 交通案内
江戸時代の大川浦の小祠(紀伊続風土記から)
古墳前期の製塩遺跡や弥生式土器などが出土している。
天文年中 1、532年ー |
那賀郡岩出市西坂本 its-mo九社明神 交通案内
祭神 由緒
三部大権現 この右側手前に伊多岐僧社が鎮座していたようだ。 根来寺奥の院(覚鑁上人の墓) |
和歌山市田野329 ゼンリン
大屋毘古神が祀られていること、伊太祁曽神社が勧請されていること、これらの由緒は不明。
*1 和歌山県神社誌(和歌山県神社庁) |
和歌山県有田市野700 mapfan 交通案内
紀伊国名所図会
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和歌山県有田市千田1641
吉野山の神が紀の国の漁民の神になったのは、山の樹木神が船霊として祀られたのであろうと推測されている。
素盞嗚尊は記紀神話において海洋、船舶、紀の国の樹木神五十猛命とむすびついているのは、紀の国の沿岸の海人の奉じた神であり、海の果ての根の国から来訪するマレビト神であったからである。
「マレビト」が尊ばれたのは彼らの持つ技術、情報などだけではなく、後世の行商人、落人、修験者等もそうであったが、部族内婚を繰り返すことによる一族の血が濃くなるのを防ぎ、
新しい血を部族にいれる為にも、マレビトに土地の娘が提供され、伽を行ったのである。新しい血が貴重であったのである。 一方、素戔嗚尊を海人の頭目(海賊)とし、南紀から徐々に北上して紀ノ川から大和に入り、ここで出雲王朝を建国したとの夢のある説を唱える人もいる。 また、松前健氏は、スサノオの原郷を出雲ではなく、紀ノ国に求めている。 これは出雲飯石郡の須佐神社の格式は小社であるのに対し、紀の国在田郡のこの神社の格式は大社とされている事に朝廷での重要性の認識に差があり、
やはり素盞嗚尊の原郷を紀の国に置いていたのものとの理解からである。 新しい社殿 伊太祁曽社遥拝所
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有田郡吉備町天満722 its-mo 交通案内
祭神
摂社の山東神社は伊太祁曽神社の鎮座する山東から勧請されたと云う。 従って祭神は五十猛命。『紀伊続風土記』には山東社の記載は近辺の村々にも見あたらない。 藤並神社の由緒
平安時代、天元三年(980年)紀伊国司菅原有忠郷が霊を感得されて、山城国北野天満宮から菅原道真公の霊を勧請合祀して天満宮と改称したとのこと。 天正の頃、豊臣氏の南征により社領は没収されたとのことであるが、徳川時代に再興されている。 明治以前は両部神道、その後唯一神道、明治末期周辺の神社を勧請し、藤竝神社と改称した。
お姿 その昔は有田川は流れを変えていたのであるが、神社境内に泣沢女古墳が造営されている。 通常古墳が出来る所は湿地帯ではない。7世紀頃には有田川の堤防は出来ていたことを示す古墳である。 逆に平地が多く、水に苦労していたので水主神が祀られたのかも知れない。 藤並神社の古墳由来書には、斉明女帝(宝皇女)の御孫建皇子が八歳にして薨去、天皇は皇子の事が忘れられず、健康をそこなう有様なので、有馬皇子の勧めで白浜の湯へ湯治におもむいたとあります。 658年のこと。この吉備の地は大和の建王子を葬った地と似ていたので、皇子の遺骨を納めたとの説明です。 斉明女帝の名代に泣沢女がいたのかもしれません。 有田川とその両側に山系、また下流にも丘が見える。糸我方面である。 古墳は県の指定文化財、7世紀はじめの造営、径21m〜24mの円墳。 周囲3mの溝、巨石での横穴式石室の石材は県下最大。土器、金製耳飾り、ガラス玉などが出土。 お祭り
天元三年 980年 享徳三年 1454年
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和歌山県御坊市塩屋町南塩屋1878 ゼンリン 二の鳥居と赤い狛犬
社殿
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和歌山県田辺市芳養町1029-1 its-mo
鳥居と社殿
西神社と本殿
和歌山県神社誌 |
和歌山県田辺市中万呂5 its-mo
社殿
和歌山県神社誌、平成祭礼データ、教育委員会説明板 |
和歌山県東牟婁郡串本町樫野ナルカミ1037
鳥居と拝殿
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和歌山県西牟婁郡串本町串本 niftymap
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和歌山県東牟婁郡那智勝浦町下里123 niftymap
下里古墳 場所 和歌山県神社誌(和歌山県神社庁) |