紀の国の五十猛命

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五十猛命の鎮まる紀の国。樹木神・浮き宝の神・命の神として、今も篤い崇敬を受けている。


伊太祁曽神社    Itakiso Shrine Engrish version

大屋都姫神社

大屋大明神古宮趾

伊達神社

都麻津姫神社(平尾)

都麻津姫神社(吉礼)

高積神社

妻御前社

小倉神社

大川八幡神社

根来寺の神々

衣美須神社

立神社

須佐神社 (千田)

藤並神社摂社山東神社 (吉備)

須佐神社 (御坊)

芳養大神社 (田辺)

須佐神社 (田辺 素盞嗚尊尊)

雷公神社(大島)

雷公神社(串本)

下里神社




 伊太祁曽神社 (いたきそ)
和歌山市伊太祈曽

伊太祁曽神社 公式

English version Itakiso shrine
周辺の歴史
祭礼
社宝、古文書、摂末社
私家版 紀州語り部の旅─伊太祁曽神社
伊太祁曽さんの風土記
紀伊續風土記 山東荘
伊太祁曽神社の聖母信仰
神々の原影(西田長男、三橋健)から
韓国の伊太の神
海人部と古代地名 笹谷良造から



亥の杜 旧社地

交通案内
阪和線  天王寺→和歌山  (60分830円)
貴志川線 和歌山→伊太祁曽へ(19分280円) mapfan

祭神
五十猛神(いたけるのかみ) 配祀 大屋都比売神、都麻都比売神
五十猛神はまたの名を大屋毘古神と言う。有功(いさお)の神とも言う。
五十猛神は浮宝(船)の神・樹木の神・いのちの神である。

由来
 日本書紀の一書(第五)の伝えに、素盞嗚尊(須佐之男の命)が言われるの に、韓郷の島には金銀がある。もしわが子の治める国に、舟がなかったらよくないだろう」と。そこで鬢を抜いて杉、胸毛から檜、尻毛から槙、眉毛を樟となしたとある。 用途として杉と樟は船、檜は宮、槙は寝棺を造るのに良いされ、そのために木種を播こうと申され、その子の五十猛神,大屋都比売,都麻都比売 の三柱の神がよく木種を播いた。五十猛神は「紀伊に坐す大神」と讃えられた。*1 照葉樹林の多かった日本に松等の針葉樹が縄文後期に大陸や半島から持ち込まれた事の伝承とも思われる。
日本書紀の中に「わが子の治める国」とあるのは重大である。わが子とは五十猛命、国とは大八洲である。天孫族が渡来する以前であろうが、この国の王とも言うべき存在であったとする有力な伝承が日本書紀の編集時には残っていた事を示している。

 また素尊を台風神とし、五十猛をその分身としての猛烈な台風神とする説がある。*2  メソポタミアの暴風神はインダルと呼ばれる。 平成8年の12号台風のコース はこの神が祀られている地域をうまく通っている。島原、有明、筑紫、丹波、佐渡、陸奥である。

 西暦1223年に書かれた「上ツ記」に神宮文字(最古の日本文字)を撰したのが五十猛命とされている。*4

紀の国の大神の交代
 紀伊は木の国海人の国である。船の材料としての良質な木材の集散地でもあった紀ノ川河口にほど近い秋月(現在の日前宮の地)にこの神社は祀られていた。 紀氏が紀州の北部の権力を掌握した後、山東の亥の森(現在地の南東500m、現三生神社)に移され、さらに分遷され現在地に移り、五十猛の神を祀ったと伝わる。 「三兄妹を祀る神社は、静止衛星の如く秋月の地から5kmの同心円上に配置されている。」とは宮司の奥鈴雄氏の言である。伊達神社、大屋都姫神社、都麻津姫神社、高積神社等である。

ここより西の吉礼貝塚が山東が海岸沿いであったことを物語る。東の大池も縄文遺跡が多く、古代より山東が拓かれた地域であった事をうかがわせる。
素尊とのつながりでは須佐、奥須佐と呼ばれる地域が伊太祈曽に隣接していることも興味深い。

 また伊太祈曽には和田川が流れており、これは和歌山内中部に入り竈山神社付近を流れている。昭和30年頃まではよく氾濫し、床上浸水等は多かった。
 この和田川の水神を祀っていたのではないかとの指摘がある。*7 水の神の上に木の神がかぶさっている神社と理解できる。

上古にはこの水神の神威は北部平野にまで及んでいたと推定されている。紀の國造が国懸神を掲げて社地の交代を迫り、更にはこの地域の宗教的統一を図るべく日前神国懸神との競合を畏れて朝廷に分遷を願い出たのであろう。 しかし未だに紀北の人々の間では伊太祁曽神への篤い信仰は衰えていない。

紀州志略 江戸時代の紀の国名草の伊太祁曽神社も経営が苦しかったと見え、日を抱くから天之手力男や、伊勢山田風の宮、また泉州や河内方面に信者をふやそうと河内国岩堀明神と称したりしている。

木の神
 軍事、造船と稲作用耕地の開拓や治水の道具に鉄が欠かせないものであり、 製鉄のための木炭が戦略物質となってきた。このため木の再生産に適している温暖な和歌山が産地として重要な役割を果たし、かつ良い木炭を産出した。
 和歌山の木炭生産は戦前まで盛んであった。木の神が尊ばれる由縁である。 素尊を製鉄の神とする説も多い。

伊太祁曽神社の歴史レジメ
 
往古山東の住人が水神を祀った。現在まで摂社として御井神社が祀られている。
地域の産業として材木を扱い、樹木神、家屋神が祀られた。祭神の別名として大屋毘古神の名が残っている。
大田黒田地域の紀氏が秋月の地で祖神として素盞嗚尊や名草比売を祀った。紀氏の秘系譜が現存すると言う。
永享文書 垂仁天皇十六年 大和の王権の伸張の中で紀氏は自らを天孫系とするべく、伊太祁曽三神を追いやり(亥の杜、三生神社)、日前国縣神を祀るようになった。福島県いわき市の佐麻久嶺神社は日前国懸大神を勧請したと伝わるが、祭神は五十猛命である。 
続日本紀 大宝二年(702年)山東へ遷座後も勢いが強く、紀氏のアッピールで伊太祁曽三神を分遷、この時五十猛命は山東に留まった。この年、文武天皇持統上皇が紀伊へ御幸している。
分遷時、現社地に祀られたと言う。また和銅六年とする説もある。五十猛命と大屋毘古神の習合が生じたのであろう。1298年前の出来事である。
寛永記 和銅六年(713年)五十猛命、大峰釈迦嶽等から山東の地に降臨したと伝わる。同じ年に須佐神社が吉野西川峰より勧請とあり、これにあわせて語られた伝承であろう。
嘉祥三年(850年)10月8日 従五位下(文徳実録)
天安三年(859年)1月27日 従四位下(三代実録)
元慶七年(883年)12月28日 従四位上( 々  )
延喜六年(906年)2月7日 正四位上(日本紀略)
延喜式神名帳で、伊太祁曾神一座として名神大、月次、相甞、新甞の祭祀の奉幣社となる。
長承元年(1132年)鳥羽上皇、山東庄を大伝法院領とした。根来寺領となった。覺鑁上人が山東に明王寺を建立、奧院とし、根来寺が当社の祭祀に関与を行った。
天正十三年(1585年)羽柴秀吉に社領没収さる。その後羽柴秀長が社殿を再建。
寛永十四年(1637年)紀州徳川家が祭礼料として伊太祁曽村の社領四石を与える。その後増加して二十石。
貞享四年(1687年)仏家の祭典を退けた。
享保六年(1721)徳川吉宗が真御太刀、御馬代を奉納。太刀は社宝として伝わる。

お姿
 たたずまいの美しいお社である。木の神らしく入り口の鳥居の側に大きい樟の木がある。 境内には樹齢数百年の大きい神木の杉の木があったが、残念ながら戦後枯れてしまった。戦前の写真にはある。
 池と太鼓橋の色合いはよく調和している。

戦前の伊太祁曽神社参集殿(ご提供 金鑚俊樹様)


戦前の伊太祁曽神社と神杉

太鼓橋と拝殿

本殿

紀伊國名所図会(江戸時代)の伊太祁曽神社

作者はこの絵の下に描かれている鳥居の横で生まれ育ちました。
勿論江戸時代ではありません。
この絵の中にご先祖がおられる様な気がします。

名所図絵に掲載の境内摂社

名所図会と同じ方角からの航空写真


お祭り
お祭りの日は神様が降臨されます。おまいりをして、お賽銭をはずもう。
1月14日     卯杖祭 収穫を占い、祈る神事
4月第一日曜日   木祭り 樹木に宿る霊を浄める神事
7月30、31日     芽輪祭 輪をくぐりぬけ病を払う祭礼、蘇民将来の伝え
10月15日    秋祭り 御輿をくりだし収穫の御礼祭

芽輪祭に現れた祖霊達

献詠歌 本居大平

天[あま]なるや八十[やそ]の木種を八十国にまきほどこしし神ぞこの神
山々の木々の栄えを木の国の栄と守る伊太祁曽の神

関連する神社

須佐神社    素戔嗚尊 (紀勢線簑島駅バス田村湯浅行き千田下車1分)*3 ほか
古代の神楽料所 御坊 富安庄

境外摂社


丹生神社 「丹生津彦命、丹生津姫命、配祀 天照皇大神」伊太祁曽神社の飛び地、北2.5Km
 奥の宮である。伊太祁曽神社所蔵の中世の「日本紀伊国伊太祈曽明神御縁起事」には日出貴(ひだき)大明神、居懐貴孫(いだきそ)大明神と呼び、日輪を抱く母子神の伝承も伝わっている。*6

亥森神社亥森神社(三生みぶ神社)旧社跡

典型的な鎮守の杜 五十猛命、大屋津比賣命、都麻津比賣命

旧社地を取り囲む様に鎮座する五十猛命兄妹神を祀る式内社の論社
伊達神社
大屋都姫神社
都麻津姫神社(吉礼)
都麻津姫神社(平尾)
高積神社

参考文献
*1 日本の神々(松前健氏)中央公論社、日本書紀
*2 銅鐸への挑戦(原田大六氏)六興出版社
*3 和歌山県の歴史散歩(県高校社会科研究協会)山川出版社
*4 神代文字の謎(藤芳義男氏)桃源社
*5 和歌山県神社誌(和歌山県神社庁)
*6 探訪神々のふる里4(小学館)
*7 日本の神々と建国神話(志賀剛)雄山閣
*8 伊太祁曽神社由緒略記
紀伊續風土記 伊太祈曽村




Itakiso Shrine

I-no-mori The former shrine


Traffic Guide
JR Hanwa-line Tennouji→Wakayama(1h,¥830)
Nankai Kishigawa-line Wakayama→Idakiso(19min,¥280)

Dedicatee
Spirit Itakeru,Spiritdess Ohya-tsu-hime,Spiritess Tsuma-tsu-hime ,who are brothers and sisters.
Spirit Itakeru is also called Spirit Ohyahiko or Spirit Isaoshi(useful).
He is the Spirit of boats,trees and life.

Origin
  According to the first note of Nihon-shoki,Spirit Susa-no-wo made beard into Japanese cedar,chest hair into Japanese cypress,buttock hair into Japanese torreya and eyebrow into camphor tree.They said that Japanese cedar and camphor tree is a good for boats,Japanese cypress is good for shrines and Japanese torreya is good for coffins.
So,Spirit Susa-no-wo recommended to sow them and Spirit Itakeru,Spiritess Ohya-tsu-hime,Spiritess Tsuma-tsu-hime,who are his sons and daughters,seeded them widely.Therefore,Spirit Itakeru is said "Great Spirit of Ki-i country(Now Wakayama and Mie prefecture)".*1
Spirit Itakeru story is a legend about the introduction of needlereef trees. Before later-Jomon period,there were a lot of laurilignosa and little needlereef trees.In later-Jomon period,needlereef trees such as pine trees were brought from China or Korea.
Some people says that Spirit Susa-no-wo is the Spirit of typhoon and Spirit Itakeru is the agent of him,as the Spirit of heavy typhoon.*2
  Typhoon 12th in 1996 passded the area where these Spirits are dedicated. That is Shimabara,Ariake,Tsukushi,Tamba,Sado and Mutsu.
According to "Uwatsu-ki" written in 1223, Spirit Itakeru completed the oldest character of Japan called "Jingu Moji".*4

Place changes of Shrine Idakiso
A lot of people who worked at forests or seas were in Ki-i country and the mouth of Kinokawa-river was the good port of fine quality woods.Shrine Idakiso was near there,Akizuki(now Shrine Nitizen-gu).After the Ki family dominated the North of Ki-i country,this shrine were obliged to move into Inomori at Sando(now Shrine Mibu,500 meters south-east from the present place).At that time the shrine dedicated Spirit Itakeru,Spiritess Ohya-tsu-hime and Spiritess Tsuma-tsu-hime.And then the three Spirit and Spiritess dedicated three different shrines and the shrine dedicating Spirit Itakeru constructed at Idakiso.Mr.Suzuo Oku,the priest of Shrine Idakiso,say that these three shrines place on the circle which center is Akizuki and radius is 5km like a stationary orbit.
Kire kitchen midden is in a litte west of the shrine and this means that Sando was the seaside and there are a lot of remains of Jomon-period in Oike,a little east of the shrine.Therefore,we can say that the area around Sando was cultivated in ancient time.By the way,Sando is next to Susa or Oku-Susa.It is interesting that these areas occures me Spirit Susa-no-wo.

Spirit of trees
Steal is necessity for arms,shipbuilding and tools for reclaiming field or river improvement.So,charcoal for iron manufacture is the important strategic goods.Wakayama area play an important part as a charcol-production district because the climate is worm enough to grow woods.Of course the quality of charcoal was very good.
In Wakayama,a lot of charcoal was producted before wwU.So,the Spirit of trees are still respected.Then a lot of scholars says Spirit Susa-no-wo is the Spirit of iron manufacture.

House of worship

View
This shrine is beautiful.There is a large Japanese torreya at the side of torii and it is suitable for the shrine dedicated the Spirit of trees.There was a holy wood,a large Japanese cedar which age was some hundreds old.But it deid after wwU.There is a beautiful harmony between the color of the pond and that of Taiko bridge.

House of the Spirit. Hon-den

Picture From Kii-koku Meisho-zue made at Edo-jidai.

Festival
In the festival day,the Spirit isn't in heaven but in the shrine.Let's visit the shrine and pay offertories. Jan.14,15 Ujyo-sai praying a lot of harvest
Apr. 1st Sunday Ki-matsuri praying the good growth of trees
Jul.30th Chinowa-sai Going trough the special ring,you must be healthy. Legend of Shourai Somin.
Oct.15th Autumn festival thanks for rich harvest with Mikoshi.

Family shrine
Shrine Nyu    Spiritess Nyu-tsu-hime(2.5km north of Shrine Idakiso) the holiest place.
Shrine Susa    Spirit Susa-no-wo(1 minite walk from Senda bus stop,for Tamura-Yuasa from JR Minoshima station)*3

Friend shrine
Gion-sha Spirit Susa-no-wo

Ebisu-sha Spirit Ebisu

Iwa-mado-sha The Spirit of house

Mii-sha The Spirit of clean water

Mibu Shrine Former Shine Idakiso with typical shrine forest


*1 Nihon no kamigami(Matsumae Takeshi)
*2 Doutaku he no chousen(Harada Dairoku)
*3 Wakayama-ken no rekishi sanpo
*4 Shindai-moji no nazo
*5 Wakayama-ken Jinja-shi




 大屋都姫神社 (おおやつひめ)
和歌山市宇田森59 mapfun



交通案内
阪和線  天王寺→砂川で各停→紀伊下車 (60分840円)
徒歩   東へ3分、南へ12分、途中に喜の国の老人憩いの館の立派な建物ができている。mapfun

祭神
大屋都比売命
素尊(須佐之男の命)の子、相殿の兄神、妹神と共に、木種を国土に播いた。
木具、薪炭、船車、住宅等の木製品の守護神である。

配祀神社 伊太祁曽神社「五十猛命」、抓都姫神社「抓都姫命」

 この大屋とは豪族の意味があり、大屋の科(おおやのけ)とは豪族の生活費のことで、「公け」である。地名の話(谷川健一、尾崎喜左雄)平凡社より。

由緒
  御祭神は、素戔嗚尊の神女で五十猛命の妹神である。 この神は妹神の柧都姫神命と、御父神の勅を奉じ、御兄五十猛命の神業を助け八十木種を筑紫の国より播き始め、 大八州国島の八十国残る隈なく播種し終り、当地に鎮り、木種播殖に著大な御功績のある神であり、樹木の守護神として御神徳もあつい。

 なかでも大屋都姫命は住宅、船、車、木具、薪炭など木製品の守護神として崇敬さている。

 当社古くは五十猛命、柧都姫命とともに日前宮の地に鎮座するも、垂仁天皇16年、伊太祈曽村に遷座し、文武天皇御宇、太宝二年(702年)三神を3所に分遷したとき北野村古宮の地に遷り、更に今の宇田森神ノ木の地に遷座される。

お姿
 宅地開発が進み、境内間際まで人家が来ている。また幼稚園も隣接している。 神殿の後方の杜はこんもりとしている。流石に木の神をお祭りしている神社を思わせる。
 紀ノ川をはさんで高積山が姿よく見えるが、これがまた嫁に行った妹が貧しい生活を強いられ、高積山の向こうの実家を懐かしがっているような気持ちを感じさせてしまう。

神奈備
紀ノ川下流域の神奈備山「高積山」。神社との間を紀ノ川が流れている。



お祭り
夜宮祭  8月21日
例大祭 10月21日

紀伊国名所図絵

紀伊續風土記 巻之九 名草郡 平田荘 宇田森村から


○大屋大明神社  境内 東西五十間 南北五十間   禁殺生
      五十猛命社  三尺一寸 二尺四寸  
  祀神  大屋津姫命社 六尺九寸 六尺二寸  
      妻都姫命社  三尺一寸 二尺四寸
   拜殿   廰   御供所
   御湯所  鳥居二基 一基は島村領にあり兆域方八間
  末社五社
   伊太祁曾大神 都麻津姫大神 社  五社明神社
   天照大神 猿田彦大神 社  里神社
   天神地祇社
  延喜式名草郡大屋都比賣神社 名神大月次新嘗
  本國神名帳名草郡従一位大屋大神
森の艮一町許にあり 宇田森北野二村の産土神なり 三代實録に云貞観元年正月二十七日奉授従五位ノ下大屋津比賣神ニ従四位ノ下とあり
本国神名帳に従一位とあるは貞観以後増階ありて従一位に昇り給へるなり
當荘上世五十猛命抓津姫命と倶に今の日前宮の地に鎭座し其後山東ノ荘に遷座し大寶二年(702年)に至り三神を三所に分ち遷す 當社も此時北野村の内今の古宮といふ地に遷り後更に今の地に遷座す 其詳なる事は山東荘伊太祁曾神社の條に出せり
祭禮六月朔日 九月二十一日なり 古は神事に流鏑馬猿田樂あり 又十月末の日山東伊太祁曾の神社の社人小豆飯橙餅並魚酒なと供へ十一月末の日山東より當社へ渡りありしとそ 當社の神戸を大屋神戸といふ其地は今の和佐ノ荘の地ならむ事は和佐ノ荘論に辨す 其癈するいつれの時なるをしらす後世神領の多少又詳ならす寛文記に近古まて神田二町ありしといへり今社の近邊高五百石ほとの地を字神の木と呼ふ古森の殊に廣大なりし事知るへし
當社一荘の氏神なるへきに今僅に二村の氏神なるは後世荘中争論なとありて弘西北西田井ノ三村は別に分れ當社を氏神とせさるに至りしならむ

『平成祭礼データ』lから

 参拝のしおり
 御由緒
 御祭神は、天照皇大神の皇弟素戔嗚尊の神女で五十猛命の妹神である。 この神柧都姫神命と御父神の勅を奉じ給い、御兄五十猛命の神業を助け八十木種を筑紫の国より播き始め、大八州国島の八十国残る隈なく播種し終りて、当地に鎮り坐す木種播殖に著大な御功績のある神であり樹木の守護神として御神徳もあつい。
 なかでも大屋都姫命は住宅、船、車、木具、薪炭など木製品の守護神として崇敬されている。 仁明天皇嘉祥三年、清和天皇貞觀元に神階の御授進あり、その後寛治元年、堀河天皇熊野御行幸の時、特に御奉幣あり。次いで長治元年に十八町歩の神田、五町四面の社地を御寄進あったが大水の乱、天正の兵火にさしも宏壮を極めた宮居も灰燼に帰した。
 当神社は延喜式神明帳に紀伊国名草郡大屋都比賣命、名神大月次新嘗とあり、本国神明帳に従一位大屋大神、三代実録に貞觀元年正月二十七日奉授従五位下大屋都比売神従四位とある。
 本国神明帳に従一位とあるのは貞觀以後増階のあったものである。
 当社古くは五十猛命、柧都姫命とともに日前宮の地に鎮座あるものち伊太祈曽村に遷座し、太宝二年三神を3所に分遷したとき北野村古宮の地に遷り、更に今の宇田森神ノ木の地に遷座される。   
 以上

大屋姫神社(島根)




 大屋大明神古宮趾
和歌山市北野  ゼンリン


お祓い山


交通案内
阪和線  天王寺→砂川で各停→紀伊下車
徒歩   北東へ5分 紀伊プリント工場の西に隣接

祭神
大屋都比売命


由緒
 祭神は素盞嗚尊の御子、五十猛命、柧都姫命と兄妹、樹種をこの国に播いた有功の神。祭神は山東から当地へ遷座、後更に宇田森へ遷座。

 和銅六年(713)に、山東の亥の森に鎮座していた五十猛命、大屋都姫命、柧都姫命の三神が分遷され、大屋都姫命は先ず当地に遷座ようだ。当社古由によれば、遷座地は宇田森の北五十計の北野村内の御祓い山である。後に、現在地である宇田森に遷座している。
 さて、北五十計の意味であるが、北五十町許のこととすれば、北に約五十町となり、これは北に5.5kmと言うことで、深く山中に至る。よく分からない。
 御祓い山は実在している。この山で椎茸栽培をしている方と山中で出会った。お家に電話してまで、山の名を確認下さった。さらに彼曰く、「昔の祀りの痕跡はないが、この辺りで行われていたと伝わっている。」との場所まで案内下さった。たしかに何もないが、竹藪にもなっていない。

 「この山は大屋都姫神社の所有物でしょうか?」との質問には、「そうだと思う。買いに来ましたか?」との逆質問、どうやら今は筍でも椎茸でもスペースを自由に使っているのかも知れない。買われたら困るのだろう。



  御祭神は、素戔嗚尊の神女で五十猛命の妹神である。 この神は妹神の柧都姫神命と、御父神の勅を奉じ、御兄五十猛命の神業を助け八十木種を筑紫の国より播き始め、 大八州国島の八十国残る隈なく播種し終り、当地に鎮り、木種播殖に著大な御功績のある神であり、樹木の守護神として御神徳もあつい。

 なかでも大屋都姫命は住宅、船、車、木具、薪炭など木製品の守護神として崇敬さている。

山中の石垣

お姿
 紀伊プリントの工場は稼働しているのかしていないのかよく分からない。
 山中をうろうろして奥の方の畑に出た。ここでは別の老人にであったが、探している主旨を話すと、『紀伊続風土記』には、この山だとは書かれていない。と。大和御前社の東の少し高い所とあり、そうだとすればそのインテリ老人の畑か住居辺りが大和御前社の旧地かも。

 宮司さんの情報によると、お祓い山の西に新池と言う池があり、その東側に大和御前社の小さい祠があり、10年ほど前まではそこで祀られていたようだ。

 小生も、大和御前社の東の小高い所と読んでいたので、現在の再建された大和御前社の東の史跡らしい所を探索して、上野廃寺跡を山中で発見、てっきりこれだと思いこみ、HPに仮アップしていた所、大屋都姫神社の宮司さんから、御祓い山だよ、とご指摘を受け、再度の探索に及んだ次第。

上野廃寺跡
 

お祭り


紀伊續風土記 巻之九 名草郡 平田荘 北野村から


○大屋大明神古宮趾  境内周百二十間
村の艮大和御前の東少し高き所にあり 山上に方一間の祠あり 今村中の古き御祓を納むる所とす 即大宝中の遷座の地にして後今の宇田森へ遷し奉れるなり




 伊達神社(いだて)
和歌山市園部1580 ゼンリン

交通案内
阪和線  天王寺→砂川で各停→六十谷下車 (60分820円)
徒歩   西へ20分、有功小学校の西、園部。

祭神
五十猛命,神八井耳命
 五十猛命は素盞嗚尊(須佐之男命)の子、半島より樹種を持ち帰り、妹神の大屋都比売命、都麻都比売命と共に、本土に播いたと伝えられる植林・緑化の神である。
 神八井耳命は神武天皇の長男(綏靖天皇の兄)である。園部の氏神に当たる。

由緒
 船の神の色彩が強い。
 イダテの神は各地にあり、特に出雲では韓国伊太(からくにいだて)神社と呼ばれ、強く半島と結びついた名前である。国造で あった紀氏の半島での活躍などから、木の国の神五十猛命が半島と結びつけられたのであろう。

 神功皇后の半島遠征の時、この神が船に祀られたと播磨風土記にある。*1

 現在は紀ノ川の北側に鎮座しているが、その昔は南側の志摩神社の場所に祀られていたと伝えられている。 遷宮の時期・理由については分からないが、伊太祁曽神社の秋月からの移転と関係あるのかもしれない。

 地名の有功(いさお)は五十猛命の別名の有功の神の意である。

本殿

お姿
  有功(いさお)の地の郷社である。この辺りには古墳が多い。古来より栄えていた土地柄である。
 鳥居をくぐって30メートル程の参道を行くと、狛犬と近所の小学生が出迎えてくれた。参道の両側の木立と神社の後方の森は良い。
 本殿の東側には大きい楠の木がある。本殿を囲むように、東から天照大神、八王子、稲荷、八幡、樟、春日、住吉、粟島、早尾、天磐座、大人、八幡、畦、妙見、大人、天満、王、恵比須さんの社が祭られている。総社の雰囲気である。

 神武天皇の長男(綏靖天皇の兄)が御祭神に入っているからか、手入れの行き届いた印象を受ける神社である。氏子諸兄の日頃の努力のたまものであろう。

拝殿

鳥居と参道

お祭り
  例大祭 10月13日

紀伊国名所図絵から 園部神社へ合祀前の伊達神社


紀伊国名所図絵から 園部神社



紀伊續風土記 巻之八 名草郡 貴志荘 薗部村から
薗部神社  境内 東西二十五間 南北二百六十八間   禁殺生
  本社 拜殿 廰 二間 五間 御供所
     神楽所  御湯所
  末社十一社
   八幡宮 恵美須社 天磐座社 天照大神 金峯神 社 合殿
   八王子社 粟島社 春日社 楠神社
   早尾社 住吉社 稲荷社
  延喜式名草郡伊達神社 名神大
  本國神名帳名草郡正一位伊達大神
村中にあり 善明寺大谷平井薗部四箇村の産土神なり 續日本後紀承和十一年(844年)奉授紀伊國ノ従五位下志摩大達静火ノ神ニ正五位下ヲ(大達は伊達の誤りならむ 瀬藤)
文徳實録嘉祥三年(850年)三神並ニ授従四位下ヲ 三代實録貞観元年(859年)三神並ニ授従四位下同十七年三神並ニ従三位ヲとあり 其後遂に正一位を授けらる
神名伊達[イタテ]は伊太にて山東荘に鎭り坐[ませ]る伊太祁曽ノ神と同神なり 土人當社を一ノ宮大明神と稱ふ又當社並に中野島村雑賀荘志摩ノ神社和田村宮郷静火ノ神社の三神を紀三所の神と稱[とな]へ奉る其詳なる事は神社考定ノ部に載たり
當社中世に至り御父神素戔嗚尊を合せ祀りて祇園牛頭天王なとゝも稱へ奉れり寛永記 是によりて寶徳三年(1451年)の祭文に京都祇園社と同じ神なる趣を書かせりされは式に載する所は一座なれとも後世にありては二座の神なり 古神拜貴志ノ荘より荘官衆馬十騎流鏑馬なり社頭も多く有しに信長公入國の時盡く滅却せりといふ
神事は二月六月九月十一月ノ十三日なり 土人傳いふ今の宮居の北に舊宮山といふ小山あり古の宮大にして今の宮居とは釣合す此は古のまゝの鳥居ならんか又村中牛神二社八幡黒神妙見辨財天善明寺村住吉八幡二社権現牛頭天王八王子二社總計十三社皆黨社の末社といふ

関連する神社
住吉大社の摂社船玉神社は紀の国の志摩神、静火神、伊達神の本社と記されている。
志摩神社静火神社とともに紀伊三所神と呼ばれていた。*2 この紀伊三所神の祭神に就いては、五十猛命と妹神の大屋都比売命、都麻都比売命を祀っていたのではとの説もある。

*1 探訪神々のふる里(四)太陽神と木の神(松前健氏)小学館
*2 和歌山県の歴史散歩(山川出版社)



 (平尾)都麻津姫神社 (つまつひめ)
 和歌山市平尾957 ゼンリン

交通案内
阪和線  天王寺→和歌山 (60分840円)
貴志川線 和歌山→伊太祁曽(いだきそ)下車、北へ500m、西へ300m山沿い

祭神
都麻津姫命
合祀 平緒王子社(明治41年)


和佐王子と平緒王子の地図 33k


由緒
702年、五十猛命、大屋都姫命、都麻津姫命の三神が分遷された際の都麻津姫命神社とされている。
 熊野古道の平緒王子社とも混乱して扱われ、後年荒廃した。特に天正の兵乱では山東の地は灰燼に帰し、文書類も焼失した。
 神社の東200m程に自治会館があり平緒王子社跡の看板がある。
 都麻津姫命は五十猛命の妹神で、大屋都姫命と共に素盞嗚尊の子神とされる木の神である。 五十猛命は別名大屋毘古命で、その正妻が大屋都姫命、二位の后が都麻津姫命との解釈もある。

お姿
 小山の入り口に鳥居がある。山道は登り道であり、中腹にお社がある。 本殿はコンクリート造りの流造である。







紀伊国名所図絵から




紀伊續風土記 巻之十七 名草郡 山東荘 平尾村から
○妻大明神社  境内周二町半許
本國神名帳従四位下妻都比大神
村の西山ノ岡にあり又妻御前ともいへり此御社古は荘厳なりしに後世衰廃して今は最小祠にして形はかりを遺せるなり 又何れの時にかありけむ辨財天石を側に並へ祀れり按するに和名抄郷名を載する所妻神戸の地なる故に妻都比一坐を齋き祀れり 寛永記に正月朔日十月初亥十一月初己に毎年伊太祈曾の社人出仕し御供を備え來れり 古は社殿も荘厳にして面行七尺八寸妻行七尺三寸檜皮葺なりしに天正の兵亂に破滅せらる 其後羽柴秀長朝臣再興して社領も三段寄られしに今は皆癈して僅に舊跡を存するのみといへり 其詳なるは神社考定ノ部に載たり


高積神社
(吉礼)都麻津姫神社




 (吉礼)都麻津姫神社 (つまつひめ)
 和歌山市吉礼911 ゼンリン


鳥居



交通案内
阪和線  天王寺→和歌山
貴志川線 和歌山→吉礼(きれ)下車、北西へ100m



祭神

都麻津姫命 配 五十猛命、大屋都姫命

別殿 吉礼津姫命



由緒

 都麻津姫命を奉じる人々と吉礼津姫命を奉じる人々がこの吉礼の地に住み、お互いに張り合っていたとの事である。そこで都麻津姫命を祀る神社に吉礼津姫命を合祀し、東西吉礼の融和をはかったとされている。
 吉礼津姫命の名は記紀には見えない。名草戸畔と同じようなシャーマンとしてのこの地の女王であったかも知れない。
 吉礼が地名である。古代チャイナの礼書の周礼に「吉礼」「凶礼」「賓礼」「軍礼」「嘉礼」の五礼が記されている。吉礼とは祖先神や日月星辰などの自然神の祭祀の事である。
 この地が何故吉礼と呼ばれたのか、いつ頃から吉礼とよばれたのか、今となっては知る由もない。 ツマとは出ている所の意があり、海への出っ張りに祀られた女神とか、キレとは平地もしくは海と山々との境を指すと云う。確かにそのような地形ではある。 平地の日前国懸神宮と伊太祁曽神社との間の地であり、伊太祁曽三神である五十猛命、大屋都姫命、都麻津姫命の三神が秋月の地を離れ、吉礼を通り、その奧の山東の地に遷座したのであるが、元々紀の国の豪族紀氏はこれらの神々を祖神としていた節があり、この吉礼の地に祖神として三神を祀る巫女を置いたのであろう。 それが吉礼津姫命であったと推定している。更に伊太祁曽三神分遷の時、吉礼津姫命とは別に都麻津姫命をこの吉礼の地に祀ったと見る。
 都麻津姫命は五十猛命の妹神とされ、大屋都姫命と共に素盞嗚尊の子神とされる木の神である。 「妻造り」「妻入り」と言う日本の木造建築の古い様式があるが、この都麻津姫の名前にちなんでか、建築・木の加工の神としての信仰があつい。 抓津比売とも書くが、抓とは屋を造る料として木取った材の意である。
また「妻」ゆえ安産の神様としてもお参りされている。吉礼(きれ)宮とも呼ばれている。

お姿
 吉礼は和歌山の平地の東端であり、山東への入り口になる。貝塚がある。 オリンピック水泳の銀メダルの橋爪選手はこの地の出である。(金は古橋、余談だが金と銀ではその後の人生行路が大きく違う。)
 車の多い狭い道を入ると、そこに社がある。鳥居の横の掲示板に祭りが紹介されているが、ほとんど消えかかっている。その後ろに5m四方の池があり、島のカシの木が大きい。神社は新しく、右に五十猛命、中央に都麻津姫命、左に大屋都姫命の三兄妹が祀られている。 また西側に吉礼津姫命神社の小殿がある。奥の森はやはり深いたたずまいである。秀吉の紀州侵攻の際、廃墟となり、以降十分の一に縮小になったと言う。信長・秀吉は革命家でもあったのか神社・仏閣への尊敬の念は薄く、これらを多く焼き払っている。 日前宮も伊太祁曽も焼かれている。また、秀吉は資金稼ぎに古墳を発掘、朱を取り出したりしている。秀吉本人は豊国神社で神様になっているのは漫画であり、これぞ神罰か。


都麻津姫神社


吉礼津姫命神社





お祭

例祭 10月14日



紀伊国名所図絵から




紀伊續風土記 巻之十六 名草郡 吉禮荘 吉禮村から
○吉禮大明神社  境内 
東西四十二間 南北二十二間  禁殺生
本社 
八尺 五尺  拜殿  神樂所
 御供所   寶殿   御手洗
 清水井   鳥居
末社二社
 妻津姫神社 五十猛神 大屋津姫神 社
本國神名帳名草郡従五位下吉禮津姫神
村中にあり 一村の産土神なり 此御神古書に見はるゝ所なけれは其來由を知る事あたはす 然れとも神名帳に載する時は此地に鎭り座
マセる事舊き事と知るへし 往古は神田も多く境内廣大にして社殿壮麗なりしか 天正年中(1573年〜)の兵に羅カゝリて神寶」給記皆焼亡せしといふ これより諸事衰癈して神名をも取失ひ或は山王明神と稱し又妻都姫ノ神と稱せり 其誤詳に神社考定の部に辨せり 寛文中(1661年)兩部を改て唯一となし給ひ福善寺といへる別當寺を境外に移す 社前に古き鐵の御鬮箇あり銘に奉ル寄進御神前名草ノ郡吉禮大明神と刻めり

都麻津姫を祀る論社
高積神社
(平尾)都麻津姫神社




 高積神社(たかつみ)
和歌山市禰宜1557 上宮its-mo

上宮の参道と鳥居
 



交通案内
阪和線  天王寺→和歌山 (60分820円)
和歌山線 和歌山→布施屋(ほしや)
 南正面の高積山(和佐山)の西へ 1500m で下宮
 下宮の左側の山道を頂上に行く。25分の登りで上宮。

上宮の拝殿


祭神
『紀州名所図会』高積比古命、高積比売命

『紀伊続風土記』都麻津姫命、五十猛命、大屋都姫命



由緒
 延喜式神名帳に紀伊国名草郡に高積比古神社、高積比賣神社の名が見える。その神社の後裔社であろうと思われるが、神社由緒書きや郷土史家は全くこの事に触れず、ひたすら伊太祁曽神社の三神分祀の勅命による都麻都比売を祀った式内社都麻都比売神社の論社を主張する。どうやらその理由は上宮が鎮座する高積山は高山であり、高宮、高大明神と呼ばれていた神社を失われた高積の神々になぞられて「高」から「高積」としたと想定されること。また気鎮神を合祀したことで、三柱の神を祀っているので、それならば伊太祁曽三神になぞらえる事が出来ると考えたのであろう。要するに伊太祁曽三神の人気は今に至っても高いのである。

上宮の本殿
 


  上宮が紀ノ川下流の神奈備山である高積山の頂上にある。いつ頃からか、伊太祁曽三神を祀ったとされ、高三所大明神と呼ばれたようであるが、高積比古神社、高積比賣神社に比定するのが自然。『式内社調査報告』もその見解である。

 高積山の北側が和佐関戸であり、この地に妻御前社が鎮座していた。祀神は都麻津姫命とされる。五十猛命と大屋都比売を配祀している。また下宮の地は気鎮社であったようだ。



お姿
 下宮 熊野古道に面しており、王子社の川端王子を合祀している。本殿は木々に覆われ、流石に木の神である。

 
上宮 登り道はきついがいい道である。山の上としては驚く程の造りの神社である。感激する。本殿の背後の杉の木が立派。上宮周辺は照葉樹林で、その濃厚な葉の光は真冬とは思われないたたずまい。休息所がある。紀ノ川一円が見渡せる。

下宮の鳥居


下宮の拝殿



お祭り

 4月15日 春祭例大祭
旧6月30日 茅輪神事
10月10日 秋祭例大祭
12月15日 火焚の神事




下宮の本殿





紀伊国名所図絵から 上社 高御前社  下社 気鎮社




紀伊續風土記 巻之十一 名草郡 和佐荘 禰宣村から
○高三所大明神社  境内 
東西三十間 南北十五間 禁殺生
  五 十 猛 命
  都麻都比賣命  合殿 
方二間半
  大屋都比賣命  
   廳  瑞籬  鳥居
 末社七社
  帝釋天社  結神    山王社
  辨財天社  恵比須社  塚主神
  粟島社
 延喜式神名帳都麻都比賣神社 
名神大 月次新嘗
 本國神名帳従四位都摩都比賣大神
村の東和佐山の嶺にあり 和佐山一に高山といふ故に古より高社高宮高三所大明神又高御前とも稱す 關戸井ノ口禰宣中村の氏神なり 古は那賀郡小倉荘三毛村邉まで當社を氏神とすといふ 當社往古は伊太祈曾神大屋津比賣神と共に今の神宮郷日前國懸兩宮の地に在し後山東荘伊太祁曾の地に遷り大寶二年(702年)三神を分祀して都麻都比賣命は此山に遷り玉ふ 三代實録貞観元年(859年)従五位下勲八等伊太祁曾神大屋津比賣神都摩都比賣神並授従四位下とあり其後従四位上に授け給ふと見えたり 三神三所に分れ鎭り坐る後も三所とも各其御神を中央に祀り外二神を猶左右に祀る故に當社を三所大明神と稱す 寛文記に古は三社造りとあり
當社の事元禄年間(1688年〜)誤りて高積彦高積姫を祀るといふ其辨詳に伊太祇曾神社の條及神社考定部に載たり
祭禮九月二十日なり 舊は十一月十四日火踏[ヒフミ]の神事あり 日前宮神事記に當社の神事正月十一月十二月としるせり 又兩宮の社人及伊太祁曾の社人神事を勤るの事あり 昔は祭禮に神輿渡御あり 流鏑馬ありしに天正兵亂の後皆廢せりといふ 元和(1615年〜)以来廢を起し別當歓喜寺を罷て唯一に復せられ漸く今の姿となれり  後鳥羽院及達智門院領家藤原宰相等諸家より當社への寄附状今猶歓喜寺に傳えたり 神主を神下周防といふ




紀伊續風土記 巻之十一 名草郡 和佐荘 関戸村から
○妻御前社  境内 周十六間
村中にあり 祀神妻津姫命 寛文記に宮三社作り五十猛命大屋津姫ノ命を合祀するならんとあり其比まては伊太祁曽の社人毎年五節供に當社に來りて神事あり 事終りて高明神に至り神拝ありしとそ社前に黒木の鳥居あり




紀伊續風土記 巻之十一 名草郡 和佐荘 禰宣村から
○気鎮社  境内 
東西六十間 南北三十間 禁殺生
  本社  
方二間半 御供所  廳  瑞籬  鳥居
  末社  恵比須社
村の東三町許和佐山の麓にあり 祀神詳ならす 按するに気鎮は假字にて弦鎮と書を本字とす 弦鎮は後世蟇目なと云と同し義にて弓の弦音にて悪魔を降伏するの名なり 寛文記に此御神御装束は甲冑を御鎧魔王と軍をし玉ふ時の御姿を祝ひ申しにより荒神にて軍神とも申奉とあり
寛文記村民の説をそのまヽに書せし故三所明神と気鎮明神とを混同せる説なり 然れは神名は定かならされとも御手に弓なと執らせ玉ふ御姿にて弦鎮大明神と稱するなるへし 其詳なるは考定部に出せり 禰宣井ノ口関戸布施屋四箇村の氏神なり 古は国造家より高社を祭る事あり 其時此社前の楠樹を三遍匝りて後山上に登る 是を和佐の三匝りといふ事は国造旧記に見えたり 今は此式絶たり 神主を関本左内といふ

紀伊名所図会 気鎮神社、高御前神社

気鎮神社(きづめのじんじゃ)
 禰宣村東二町にあり。祀る神紀直祖天御食持神、例祭毎歳九月二十日。「本国神名帳」に云ふ、従四位上気津別神。社伝に大直日神と御同体なりといふ。あるひは和佐の山上に座すを高津比古の神とし、気鎮の神はすなはち高積比売の神なりとのいへり。尚ほくしくは次下高御前神社にいふべし。

高御前神社
 同じ村の東、山のうへにあり。祀る神三座、高津比古神、庚津比売神、気鎮社。当荘五箇村(禰宣・中村・関戸・井ノ口・栴檀木、以上五箇村)産神にして、例祭毎年九月二十日。又毎歳十一月十四日夜戌刻、薪十二束を積みてこれを燃やし、烈火中を社司ふみ渡るの神事あり。「延喜式神名帳」に云く、高積比古神社・高積比売神社。「本国神名帳」に云く、従四位上高積比古神・高積比売神社。社伝に云ふ、高神社(たかのじんじゃ)と申し奉るは、則大直日神にてます。魔神降服の御姿にして、甲冑を帯し、矛を持ちたまへり、されは軍神とも仰がれ玉ひ、または悪風邪気を駆除したまふをもて、小児疱瘡の憂を免れしめ給へりといふ。疱瘡流行のときは、山下気鎮社へ土人群参してこれをいのるに、かならずまぬがる々といふ。当社は或説に、天照大神の荒魂をまつるなりともいふ。「倭姫世紀」に曰く、多賀宮一座、豊受荒魂なり。伊弉那伎神所生神名伊吹土戸主亦名曰神直日比神云々。此の記によっていへるなるべし。多賀宮は宮社たがひありて、拠とするにたらざれども、社伝の大直日神といへるに、天照大神の荒魂なりといへるがよくも適へれば、さもあるべきか。按するに、「古事記」に、伊弉那伎大神、伊弉那美大神の黄泉国に至りたまふを、追求きたまうて、つひに穢國のけがれをうけ給ふをもて、筑紫日向橘小門之阿波岐原にいでまし、御身の汚垢(けがれ)を禊祓なし給へる段に、於是詔之上瀬者速。下瀬者瀬弱而。初於中瀬随迦豆伎而。滌時所成坐神名八十禍津日神。次大禍津日神。此の二神者。所至其穢繁国之時。因汚垢而所成之神なり。次為直其禍而所成神名神直毘神。次大直毘神。次伊豆能売神云々。これ今も世間にありませるなれば、神の御教えに、いにしへよりかく汚垢を除ふの禊わざはあるなり。扨(さて)神直毘・大直毘とは、其の禍を直したまふ所の御神なり。伊豆能売神とは、其の穢・悪・禍を神直びに直し清めて、明けくなし給へる御神なり。これをもて思ふに、社伝に当社の御神を大直毘神とし、魔神降服の御正体といへること、いと由縁ある事にこそ。魔神とは、則かの禍津日神をいふなり。また世に疱瘡の神などいへるものは、もとより夜見の国の穢気の成りませる神なれば、人の目には見えずして、もろ々々の禍害をなすなり。気のわざわひをなす例は、「書記」神武巻に曰く、天皇独與皇子手研耳命。帥軍而進至熊野荒坂津。因誅丹敷戸畔者。時神吐毒気人物咸瘁云々。又「古事記」水垣宮巻に、天皇の大御夢に、大物主神の詔に、令祭我御前者神気不起云々。これ天下疫気の行はるヽときのことなり。これらみな其証なり。こヽをもてその穢気を神直び大直びに直したまふ御神なるをもて、気鎮の義をとりて、気(いぶき)の伊夫と鎮の志とを略きて、伎豆の神とは称へたてまつるなり。或いは云ふ、気は疫気・神気などの気にて、祁豆の訛ならんといへるはわろし。気の伊を略ける類をいはば、なほ置の於を略きて日置・玉置などといはんがごとし。さて気鎮のことは、「遷都崇神祝詞」に、山川乃広久清地爾遷出坐弖。神奈我良鎮坐世止辞竟奉とあるも、その崇神をうつし鎮むるのことなり。また高積の美を豆の韻通にて、高とは是を美称ふる御名なり。また高津比古。比売の御名は、高積の美を略けるなり。されば当社三座の御神を大直毘の神と申し奉ること、是にていと々々明けくきこゆるなり。さてこれをわかちて、高津比古神は山上に齋き奉り、高津比売神は山下に齋き奉りしを、すべての御名を気鎮社と申せしなるを、のちにあやまりつたへて、三座の神のごと齋き祀るなるべし。しかるを或人のいへるは、高積比古神とは、紀直の祖天道根命の六世孫若積命にして、紀氏の祖廟なりといへり。若積命は「姓氏録」右京神別に大村直の祖とす。また紀直は「同書」河内國神別に、神魂命五世孫天道根命之後なり。「同書」和泉國神別に、神魂命子御食持命の後なりとも見えたり。さすれば若積命は、紀直の祖ならざること明けし。しかのみならす、紀國造
國造と直は同氏なり。 は、当国日前・国懸両大神天降の時、御従に奉仕せし神孫にして、「国造系図」に、第一天道根、第二比古麻、第三鬼刀禰、第四久志多麻、第五大名草比古、第六宇遅比古と序でたり、こは今の世若山の内に宇治といへるところあり、此の地によれる名なるべければ、いよいよ若積命ならざることをしるべし。中葉以来干戈の変によって、往々鵲巣にして居るものすくなからず、正さずんばあるべからず。
  以上

抓津姫命を祀る神社
(平尾)都麻津姫神社
(吉礼)都麻津姫神社



 妻御前社
和歌山市和佐関戸405木村さん ゼンリン の東向かいのミカン畑


ミカン畑 左下の一画が社

交通案内
阪和線  天王寺→和歌山 (60分820円)
和歌山線 和歌山→布施屋(ほしや)
 南正面の高積山(和佐山)の北西へ 1200m


祭神
都麻津姫命 配 五十猛命、大屋都姫命



由緒
  伊太祁曽神社の社記によれば、垂仁天皇の頃、日前国縣大神影向の時、伊太祁曽神社は名草の万代宮の社地を譲り、山東へ遷座したと伝えられる。

その後の文武天皇の頃、伊太祁曽三神の紀伊国における勢いが強く、紀氏の祀る日前国縣大神が相変わらず影が薄い存在であった。従って、紀国造の紀直は、伊太祁曽三神を分祀するべく朝廷に働きかけ、三神分祀の勅命を勝ち取った。大屋都姫と都麻津姫はそれぞれ、伊太祈曾の地から離れた。

 大屋都比売は名草郡平田荘に鎮座の大屋都姫神社(現在は和歌山市宇田森)であることに異論はない。一方、都麻都姫の分祀先は不明であり、式内大社の都麻都比売神社の後裔社も定まっていない。『式内社調査報告』での論社は以下の二社。いずれも伊太祁曽神社に近すぎる。分祀の趣旨にあわない。
 和歌山市平尾 都麻都比売神社
 和歌山市吉礼 都麻都比売神社

 また和歌山市祢宜の高積神社は、延喜式内社の高積神社の後裔社とされているが、神社側と和佐地域の郷土史家の間では、都麻都姫神社の論社であると主張しており、「高積」とは、高宮とか高大明神と呼ばれたので付会されたとの立場である。名誉ある高積の名を捨てても都麻都姫に肩入れしたいのが紀州人の心意気であることは事実だが、歴史的には次の考え方が正しいものと思う。

 和歌山市和佐関戸の妻御前社こそ都麻都比売の分祀先であった。平尾の都麻都比売神社は妻神戸の地なるが故の妻御前社であり、吉礼はその勧請社と見る。

 平田と和佐関戸と伊太祈曽とはほぼ等距離であり、かつ古代の街道である熊野古道沿いにある。このような観点から関戸の妻御前社が分祀先と見る。

 ここには後に五十猛命と大屋都姫が勧請され、三社とも兄弟姉妹の神々を配祀するようになった。明治末期にこの妻御前社は高積神社に合祀された。

 その後も妻御前社を祀る人々は講を形成し、今日まで祭りを絶やしていない。




お姿
  森田さんのミカン畑の南西の一画に祠が鎮座、覆殿で大切にされている。周囲は牧の祈の木で囲われ、また行き止まりの道筋にあり、通りがかりの人間が見つけることは難しい。 偶然に出会った老人に教えて貰って妻御前社の跡地と今に至るまで祀られている事を知り得た。謝。






お祭り

 

紀伊續風土記 巻之十一 名草郡 和佐荘 関戸村から
○妻御前社  境内 周十六間
村中にあり 祀神妻津姫命 寛文記に宮三社作り五十猛命大屋津姫ノ命を合祀するならんとあり其比まては伊太祁曽の社人毎年五節供に當社に來りて神事あり 事終りて高明神に至り神拝ありしとそ社前に黒木の鳥居あり

抓津姫命を祀る神社
(平尾)都麻津姫神社
(吉礼)都麻津姫神社
(禰宜)高積神社



 小倉(おぐら)神社
和歌山市金谷692 ゼンリン


交通案内
阪和線  天王寺→和歌山 (60分820円)
和歌山線 和歌山→布施屋 南東1000m

 
祭神
伊弉諾命、伊弉册命、伊曽猛命、蛭子命、大日霊貴命
坂上田村麿他多くの神々が配祀されています。

由緒
 坂上田村麿が金峯大神を勧請したと伝えられている。鎮座している山は金峯山、亀甲山と呼ばれている。
 伊曽猛命は「いそたける」と読み、五十猛命である。五十猛命は武勇の神でもあり、日本武尊も福島県の苔野神社に命を祀っている。 坂上田村麿もここに五十猛命を祀ったのであろうか。
 また紀州志略によると五十猛命を「大峰釈迦嶽科戸明神」と記しており、吉野の金峯大神社との繋がりを示している。

お姿
金峯山が神域であり、頂上に鎮座されている。




お祭り
11月3日 例祭


紀伊續風土記 巻之三十五 那賀郡 小倉荘 金谷村から
○蔵王権現社  境内周四町十八間
    伊弉諾尊
    伊弉册尊
    子守神
    勝手神
   蔵王権現
   伊太祁曾神
   衣 美 須
   廳     鐘楼    藥師堂
   阿彌陀堂  觀音堂   搭址
   大門址
村中小名明樂にあり 吐前金谷田中大垣内満屋五箇村の産土神なり 觀音堂は東の方にありこの堂一寺の本堂にて蔵王権現とは別なりしに今は権現と同境内にあり 寛永記に龜貌山光明寺と號し明樂山に伽藍建立して本尊十一面觀音を安す 此觀音旧名草郡おひしの峯に在りしに
 名草郡におひしの峯といふ所なく那賀郡におひしの峯といふありこれをいふか然れは名草郡といふは誤ならむ  野火にて堂焼失しそれより明樂山に移す その後蔵王権現を金峯山より勧請して一地に祭りしより今は社地の内の小堂の如くになれり 大抵佛堂は皆觀音堂に附属せしなるへけれとも今は混して分きかたし 寺領は樂匠寺村 樂匠寺村は今の名草郡藥勝寺村の事なるへし  半分を以て寺領とせしを天正十三年(1585年)に没収せらるとあり未の方三町許に辨天ノ祠あり奧ノ院といふ 古は明神の神幸ありし地なりとそ境内の外に二町の馬場今にあり 鳥居の傍ら秤石といふ石あり古堂社供養のとき尼カ辻村の五智坊を頼みて供養せしに五智坊唯六字名號はかり唱へける故氏子等六字名號はかりは利益あるましといひけれは名號を大なる石とかけくらへて見よといひけるに因りてかけて見しかは名號の方重かりしより今に秤石とて傳はるといふ 一説には光恩寺の開山信譽供養の時此事ありしといふ此説誤ならむ




紀伊国名所図会から



 大川八幡神社
和歌山市大川48 ゼンリン

鳥居

交通案内
南海電鉄多奈川支線多奈川下車 赤バス小島住吉行き終点より65号線を海外沿いに南下15分


祭神
応神天皇、仲哀天皇、神功皇后


摂社
住吉神社「住吉三神、船玉大明神」
鳴神神社 天王山に鎮座

江戸時代の大川浦の小祠(紀伊続風土記から)
福神社
社地周十六間 社中に神像二軆を安す。神功皇后伊太天の神像なりといふ 二軆を合わせて福の神と稱す  往古より村中にありしに天文年中孫右衛門先祖此地に移すという 
按するに伊太天は佛説にいふ韋駄天にはあらすして伊太の神にして五十猛神伊達神と同神にて此神新羅國へ下りましヽ事あれは三韓退治の時のよしなとありて 神功皇后に合祀せる成へし 社地に疱瘡神あり

摂社の住吉神社と大川八幡神社(右)


大川八幡神社の由緒
 廻船問屋中とい記銘された壮大な石灯籠が四基奉納されており、紀州廻船の一翼を担う廻線基地として江戸中期には繁栄したようである。圓光大師自らが刻んだとされる圓光大師木像を持つ報恩講寺も現存している。
 境内社の住吉神社は当神社の元の鎮座地にあったが、遷座していたようで、明治十八年再び当地へ遷座してきている。

飛び地社の鳴神神社



 鳴神神社の創建年代は不詳、大正十一年に家鳴りが大きくなり、夜になると外出できない程となり、調べてみると家鳴りを起こしている家に信仰する神社が大川天王山にあり、荒廃していた。急ぎ改築を行い、鳴神神社と名付けたと言う。


お姿
  海の香りのする港であり、人々は穏やかな様子。
 大川八幡神社の大きい石灯籠を横目に見ながら石段をのぼると、丁度、氏子の方が集会所から出てこられた。 神功皇后と伊太天の神像のことをお尋ねしたのだが、ご存じなさそうで、他の氏子の方にも確認してくれた。 で、その氏子の方は小生に順次御神体を見せてくれた。実にあっけらかんとしており、こちらが驚いてしまった。
 その中には残念ながら神像は見つからなかった。
 おそらくは鳴神神社はその鎮座地の山を天王山と言う。福神社の後裔社と思われるが、港の人々はこの神社に詣ることを怖がっているとのことで、一部の氏子の方がお祭りされているようだ。

 古墳前期の製塩遺跡や弥生式土器などが出土している。


お祭り
 例大祭  9月15日
 住吉神社  6月30日
 


紀伊續風土記 巻之二十三 海部郡 加太荘 大川浦から

○住吉社  境内周二十六間
  村の西にあり 一村の産土神にて拝殿もあり社壮麗なり

○八幡宮   境内周六十間
村の西の方海邊にあり 舊は住吉の境内に鎮座ありしを寛永年中本藩臣山本十太夫當所を領せしとき村民孫右衛門と心を合せて此地に遷すといふ 今村中の産土神とす 社壮麗にして尋常一村の産土神の盛りにあらす

小祠七社
山神社 
社地周十六間
福神社 
社地周十六間 社中に神像二軆を安す。神功皇后伊太天の神像なりといふ 二軆を合わせて福の神と稱す 往古より村中にありしに天文年中孫右衛門先祖此地に移すという 
按するに伊太天は佛説にいふ韋駄天にはあらすして伊太の神にして五十猛神伊達神と同神にて此神新羅國へ下りましヽ事あれは三韓退治の時のよしなとありて 神功皇后に合祀せる成へし 社地に疱瘡神あり
妙見社 
社地周十四間   里神社 社地周十四間
夷社      祇園社
八王子社社 
いずれも村中所々に散在す
 

天文年中 1、532年ー  

 参考 和歌山県神社誌



根来寺の神々 三部明神、九社明神
那賀郡岩出市西坂本 its-mo九社明神


大門 嘉永三年(1850)再建

交通案内
和歌山線岩出駅よりバス紀伊駅行き根来下車
阪和線紀伊駅よりバス岩出行き根来下車

多宝塔 明応五年(1496)建立  大伝法堂
 


多宝塔は最も中心となる建物で、根来寺の宗教的心髄である。多宝塔として規模も大きく、我が国唯一の木造大塔である。国宝。
大伝法堂 根来寺を総括した本堂。中央に大日如来、左脇に混合菩薩、右脇に尊勝仏頂尊を安置。

祭神
円明寺(三部大権現、伊多岐僧社「五十猛命」)、豊福寺(九社明神「地主神」)ほか

不動尊 嘉永三年(1850)建立  行者堂 役行者を祀る
 

由緒
一乗山 大伝法院 根来寺と云う。根来寺は大治5年(1130年)、興教大師(覚鑁上人)が高野山に伝法院を開いたのに始源を持つ。 後に覚鑁は高野山と対立し、ここを離れて保延6年(11140年)に根来の豊福寺に居を移した。豊福寺は1300年前、役の行者が葛城28ケ所の行場を集約して創立したと伝わる。
 高野山と覚鑁上人はその後も反目が続き、大伝法院や密厳院などが移り、一大伽藍を備えた根来寺が成立したのである。

 紀ノ川下流域は日前国縣神宮の勢力下にあり、紀ノ川中流上流域は高野山の勢いが根強く、根来寺が領域とした地域は、地元の石手荘、岡田荘、弘田荘(岩出町)や山東荘(和歌山市)、相賀荘(橋本市)であった。山東荘は紀ノ川から一山南の地域で、熊野古道が通り、また伊太祁曽神社の鎮座地であった。根来寺は伊太祁曽神社と手を結んだのである。現在でも、伊太祁曽神社の奥の宮は矢田の伝法院の北側に鎮座する丹生神社である。覚鑁堂も隣にできている。
 いずれにしろ、ここに紀北の名刹の二つのグループができたのである。高野山金剛峯寺と丹生都比売神社のコンビに対して、根来寺と伊太祁曽神社のコンビは、その後も信者獲得、領域拡大に競ったのである。根来・伊太祁曽グループは泉南にまで勢力を伸ばしたのであり、未だにその地域の信奉は篤い。



お姿
 葛城連邦の山腹に位置し、東西二十町、南北十二町で、北を頂点とする三角形の地形で、約34万坪の広さ。
 鎮守社はそれぞれの社殿は大きくはないが、美しく造られている。
 しかし残念ながら伊多岐僧社は見当たらなかった。



三部大権現 この右側手前に伊多岐僧社が鎮座していたようだ。
 


紀伊国名所図会(紀伊国神々の考古学(菅原正明)から)

九社明神
 


根来寺奥の院(覚鑁上人の墓)



 衣美須神社(えびす)
和歌山市田野329 ゼンリン


階段と鳥居


交通案内
阪和線    天王寺→和歌山 (60分820円)
バス     和歌山→雑賀崎行き わかうら園下車海岸に下る10分



祭神
事代主神 配祀 大屋毘古神、祖霊、英霊
境内社 伊太祁曽神社 祭神 五十猛命、大屋都姫命、抓津姫命



由緒
 海の守り神。 古代忌み言葉として、クジラやシャチをエビスと呼んだ漁民がいた。 クジラはイワシを授けるエビス神、シャチは可畏きものとしてのエビスである。
東北では鮭をエビスと呼んだ。種の王の意味もある。*2
 地区の言い伝えによると、泉南地区の猟師が田の浦沖で建網を張るための小屋を作り、仕事をする時だけ住んでいたが、江戸初期より家を建てて住むようになり、同時期に当神社が創祀されたと考えられる。

 大屋毘古神が祀られていること、伊太祁曽神社が勧請されていること、これらの由緒は不明。



お姿
 バス停からすり鉢のような階段道を通り海岸まで行く。見上げると鎮座している。

社殿

伊太祁曽神社
 



お祭り
例祭 7月31日 伊太祁曽夏季祭と称する。
幟揚神事は旧暦の6月18日であるが毎年の開催は難しくなっている。この時の舟唄を残すべく努めている。*1

紀伊續風土記 巻之二十一 海部郡 雑賀荘上 田野浦から

○衣比須社  境内周二十七間
 社 
方二間  廰 二間六間

 村の西にあり 慶安四年()創立といふ 一村の産土神なり

*1 和歌山県神社誌(和歌山県神社庁)
*2 古代海人の世界(谷川健一)小学館





 立神社(たて)
和歌山県有田市野700 mapfan

交通案内
紀勢線  天王寺→和歌山→箕島
有田川を渡り、東へ有田湯浅線沿い 徒歩15分 

 
祭神
大屋彦神、國常立神、伊弉諾尊、伊弉册尊
摂社 熊野社  早玉男命、 熊野皇子櫛御食野命

由緒
 鎮座の年代は不詳。大屋彦命は素戔嗚尊の御子、五十猛命の別称とされている。神社の巖下は深淵で、その上に数丈の奇巖を立石と言い、立神の名はここから付いたとされる。 水主神を祀ったと言われている。
 また國常立神を祀る意味は、より古い根元神が先に祀られていたのを、名をこの様に変えて置いたとの説がある。 荒吐神(アラハバキ神)の様な古い神格を祀っていた可能性もある。

 有田川を見晴らす立地から、航海、船の神の要素から、その材料の木霊を祀り、大屋彦命が祭神とされたのだろう。五十猛命は射楯の神であり、立に通ずる。
 近くの山地遺跡からは銅鐸一個と銅矛六本が出土している。

お姿


 落ち着いた雰囲気の社域は広く、槙、杉、樟などの大きい木々が目立つ。社殿、社務所は立派である。

本殿



お祭り
10月16日 例祭 


紀伊国名所図会



紀伊續風土記 巻之五十七 在田郡 宮崎荘 野村から
○立神社  境内周九町餘 禁殺生
  本社  末社二社  神輿殿  御供所
   拜殿  拜所  中門  湯立所
   玉垣  鳥居
村の西三町許にあり野村山地新堂小豆島古江見五箇村の産土神なり 此邉應徳間(1084年〜)熊野那智山の神領となりしより後世實方中將の苗裔當村に在城し宮崎荘七箇村を領す猶近境十箇村を併せ遠く阿波國の内五箇村を略せり 城の坤に社を創建して熊野三所飛鳥神を祀れり此れ當社創建の始めなり
社邉に今熊野濱といふ名のこれり 天正(1573年〜)兵亂に城陥り城主落行きて冦兵社内に亂れ入けるに神瑞異を現はして冦兵畏れ去る七箇村の土民崇奉して産土神とすといふ 文明(1469年〜)永正(1504年〜)年中の棟札あり 本社の後大巖壁立す相傳ふ此地古は在田川の衝にして其下深淵をなしゝといふ 按するに立神の稱は此石より起れるなり 本國神名帳當部に水主神あり今詳ならす 疑らくは立神は其神にして後に此邉熊野の神領となりしより熊野権現を其社に并せ祀りしならんか 九月十六日神事あり 神輿小豆島村の遊覧所に渡御す流鏑馬あり壯觀なり近年 亜相老公親筆の天壌無窮の四大字の額を賜ふ




 須佐神社
和歌山県有田市千田1641


交通案内
紀勢線  天王寺→和歌山→箕島
道路:有田湯浅線 千田 its-mo

 
祭神
素戔嗚尊

境内社 天照皇大神社、月讀尊社、伊太祁曽社(遥拝所) 他

須佐神社本殿(玄松子さん御提供)



由緒
 和銅6年、紀ノ川上流の大和国吉野郡の西川峯から遷座、当初社殿は海に面しており、 往来の船が恭順の意を示さない場合に、転覆させたりする事が多かったので、社殿を南向きに変えた所、 船は無事に航行できる様になったと言う。これは海賊行為そのものと見える。これは古代の徴税の姿であり、その権利を大和朝廷(から派遣された役人)に取って代わられた事を意味する。

 吉野山の神が紀の国の漁民の神になったのは、山の樹木神が船霊として祀られたのであろうと推測されている。 素盞嗚尊は記紀神話において海洋、船舶、紀の国の樹木神五十猛命とむすびついているのは、紀の国の沿岸の海人の奉じた神であり、海の果ての根の国から来訪するマレビト神であったからである。 「マレビト」が尊ばれたのは彼らの持つ技術、情報などだけではなく、後世の行商人、落人、修験者等もそうであったが、部族内婚を繰り返すことによる一族の血が濃くなるのを防ぎ、 新しい血を部族にいれる為にも、マレビトに土地の娘が提供され、伽を行ったのである。新しい血が貴重であったのである。

 素盞嗚尊が根の国から現れる神である事から、高天原神話では、幾多の罪穢の元凶とされ、また日の神の魂を奪う神と同一視されたものとしている。*1

 一方、素戔嗚尊を海人の頭目(海賊)とし、南紀から徐々に北上して紀ノ川から大和に入り、ここで出雲王朝を建国したとの夢のある説を唱える人もいる。

 また、松前健氏は、スサノオの原郷を出雲ではなく、紀ノ国に求めている。 これは出雲飯石郡の須佐神社の格式は小社であるのに対し、紀の国在田郡のこの神社の格式は大社とされている事に朝廷での重要性の認識に差があり、 やはり素盞嗚尊の原郷を紀の国に置いていたのものとの理解からである。

 延喜神名式による紀の国と出雲の国の主な共通する神社
出雲意宇 熊野大社  紀牟婁 熊野本宮大社
出雲大原 加多神社  紀名草 加太神社
出雲意宇 韓国伊太神社  紀名草 伊達神社
出雲意宇 速玉神社  紀牟婁 熊野早玉神社
 熊野社は同格、他は紀の国の方が格式は高いのである。両地域の共通性は神社や地名に多く残っており、古来からの関係の深さを示している。 松前氏は紀の国から出雲への流れと見るが、宮地直一氏は出雲から紀ノ国へと逆の移動の説である。

 豊臣秀吉が紀洲を攻めた際、紀ノ国の殆どの神社の社殿と古文書は焼失した。言い伝えしか残っていない。 これに加えて、かの南方熊楠翁が猛烈な反対をした神社統合の暴挙で和歌山の神社の歴史・由来は取り返しのつかないダメージを被ったのである。

 なお近くからは千田銅鐸と数十本の鉄刀が出土している。近くに出雲という小字があった。

お姿
漁村の千田の中雄山中腹に鎮座。確かに海の近くではあるが、海は見えない。海からも山影になって社は見えない。
大きい社殿であり、かつ新しく建てなおされており、檜と銅とが輝いている。南国らしい照葉樹林の杜の豊かな社叢である。


新しい社殿



伊太祁曽社遥拝所



お祭り
10月14日 千田祭  鯛投神事もしくはけんか祭と言われている。伊太祁曽神社から氏子代表が来る。翌日の伊太祁曽神社の祭にはここの氏子が赴く。

紀伊国名所図会やら


紀伊續風土記 巻之五十八 在田郡 保田荘 千田村から
○須佐神社  境内方四町四十間 禁殺生
 祀神 素盞烏尊
 末社十社
  
天照大神      手力雄命
  
伊弉諾尊 相殿        相殿  日本武尊社
  
伊弉册尊      月讀尊 
      以上瑞籬の内にあり
  瀬織都理比賣社  多紀理比賣社  市寸島比賣社
  多紀都比賣社  
宇迦御靈神 軻遇突知命 相殿 大巳牟遅名社
  猿田毘古命社
      以上社地の内所々にあり
  神楽所  宿直所  與舎
  四脚門  寶 蔵  御太刀寶蔵
  御装束間 御祈祷所 厩
  伊太祈曽神社遥拝所
 延喜式紀伊國在田郡須佐神社 
名神大 月次新嘗
 本國神名帳在田郡従一位須佐大神
村の西南小名西方にあり保田荘五箇村の産土神にして劔難の神と稱す
劔難除の神符を諸人に與ふるを古例とす郡中の大社なり郡中當社の外式内の神社なし 三代實録貞観元年(859年)正月二十七日甲申奉授紀伊國従五位下須佐神従五位上とあり此地古須佐郷といひ今又近郷に宮崎等の名遺れるも當社あるを以てなり詳に宮崎宮原兩荘の總論に載す 又栂[トガノ]尾明恵上人傳記建仁元年(1201年)の條に紀州保田荘中の須佐明神の使者といふ者夢中に來りて住處不浄を歎く事あり 是古より今の社地に鎭座の明證といふへし 社家の傳に和銅六年(713年)十月初亥日此地に勧請すといふ 社記曰此神舊在大和國芳野郡西川峯後移于此始祠向西海洋中往來之船不恭謹則飜覆破碎 元明天皇勅令南面今之社規是也とあり
寛永記に名草郡山東荘伊太祈曾明神神宮郷より亥森へ遷坐し給へる年月も是と同しきは故のある事なるへし當社領古は伊太祈曾神戸に接して名草郡にあり其地又當社を勧請せり
詳に名草郡山東荘口須佐村の條に辨す合せ考ふへし 天正の頃(1573年)まては毎年九月初寅の日神馬十二騎山東伊太祈曾より來りて神事を勤めしといふこれ古の遺制なりしに今皆廢せり又日高郡富安荘當社及伊太祈曾神領なりし事あり 伊太祈曾社蔵久安文書是當社伊太祈曾の父神に坐すを以てなり
天正七年(1579年)豊臣秀吉公信長公の命を受けて此地を畧せる時湯淺の地頭白樫左衛門尉實房内應をなし里民を強暴し神祠を毀壊す 社家大江氏重正といふ者神器靈寶及縁起記録等を唐櫃二具に蔵め今の神祠の後光谷といふ谷の林中に隠す 實房これを捜り出し或は火に投じ或は海水に没し亂虐殊に甚し これに因りて當社の傳記文書の類一も傳はる者なく古の事蹟詳にするによしなし 其後神殿を造營し今の姿となる 社領没収の後も祭祀古の姿を模して九月十四日神輿渡御の祭禮流鏑馬等皆一時の盛なるを極むといふ 元和年中(1615年〜)新に社領五石を寄附し給ひ 享保年中(1716年〜) 大慧公より御太刀御奉納あり 有徳大君御太刀一口御馬一匹を御寄附あり 社務を岩橋安藝守といふ大江姓にして古より代々神職なり



*1 日本の神々(松前健)中公新書
*2 和歌山県神社誌







 藤並神社
有田郡吉備町天満722 its-mo

鳥居と泣沢女古墳

交通案内
きのくに線 藤並駅下車 金屋方面行きバス天満下車


祭神
菅原道真、水主神、菅原高視 配 菅原宣來子


摂社
山東神社「伊太祁曽大神」 伊太祁曽神社からの勧請
蔵王神社、祇園神社、秋葉神社、粟嶋神社

 摂社の山東神社は伊太祁曽神社の鎮座する山東から勧請されたと云う。 従って祭神は五十猛命。『紀伊続風土記』には山東社の記載は近辺の村々にも見あたらない。

社殿

藤並神社の由緒


 武内宿禰が勅命を奉じて水主神を勧請したのが創祀と伝えられている。 その後斉明天皇三年(657年)有間皇子が当国へ行啓の時、幣を捧げられ翌年の秋天皇が牟婁の湯に行幸の砌、幣帛を奠じたまい。神戸田を殖されたと云う。

 平安時代、天元三年(980年)紀伊国司菅原有忠郷が霊を感得されて、山城国北野天満宮から菅原道真公の霊を勧請合祀して天満宮と改称したとのこと。

 天正の頃、豊臣氏の南征により社領は没収されたとのことであるが、徳川時代に再興されている。

 明治以前は両部神道、その後唯一神道、明治末期周辺の神社を勧請し、藤竝神社と改称した。

山東神社を覆う社殿 なかに二祠あり  向こうは本社本殿

お姿
  吉備の平野はミカンの木々でいっぱいである。山々もミカンである。いわゆる有田ミカンの産地ということ。 元々は水田であった所がが、減反政策もあり、損の少ないミカン畑になったのだろう。

 その昔は有田川は流れを変えていたのであるが、神社境内に泣沢女古墳が造営されている。 通常古墳が出来る所は湿地帯ではない。7世紀頃には有田川の堤防は出来ていたことを示す古墳である。 逆に平地が多く、水に苦労していたので水主神が祀られたのかも知れない。

 藤並神社の古墳由来書には、斉明女帝(宝皇女)の御孫建皇子が八歳にして薨去、天皇は皇子の事が忘れられず、健康をそこなう有様なので、有馬皇子の勧めで白浜の湯へ湯治におもむいたとあります。 658年のこと。この吉備の地は大和の建王子を葬った地と似ていたので、皇子の遺骨を納めたとの説明です。 斉明女帝の名代に泣沢女がいたのかもしれません。

 有田川とその両側に山系、また下流にも丘が見える。糸我方面である。

 古墳は県の指定文化財、7世紀はじめの造営、径21m〜24mの円墳。 周囲3mの溝、巨石での横穴式石室の石材は県下最大。土器、金製耳飾り、ガラス玉などが出土。

お祭り
 例祭 10月 9日
 管粥占祭  1月15日
 


紀伊續風土記 巻之六十 在田郡 藤並荘 天満村から

○天満天神社  境内周二百六十間  禁殺生
 本 社  拜 殿  廳  鳥 居  神楽殿
 末社六社
  祇園社  
白太夫 少彦名命社  猿田彦神社
  紅梅殿  水舟神社  建豊羽頬別神社

村中野田村境にあり 荘中下津野村を除きて九箇村の氏神なり  古傳に天元三年國司菅原ノ有忠霊夢を蒙りて山城國北野ノ社より勧請すといふ  或はいふ 守護政俊といふ人霊夢を蒙りて祭るとそ 是は其時国司の命にて其事を奉行せしよりかく誤り傳へなるへし  寛文記に此時河内守もみちのかみ並松といふ三人を供奉として九月九日に渡御あリ 並松は社僧となり両人は禰宣神主となる  故に其日を祭日とすといふ 奥村の大顔明神を濱宮とし八幡宮を御旅所として祭礼の時神輿渡御あり 祭日には両社の神主に当社に來りて神事をなす  流鏑馬あり 畠山氏の時迄は社領ありしに豊太閤の時没収せらる 當社舊は両部に祀りしに今唯一となれり  兒玉記に日本国神名帳在田郡の中に天満天神并十萬五千眷属左右二氏神とあるは是なるへしとあり  今傳ふる所の帳には此神を戴せすといへとも異本にありしならん  神主堀氏あり 雷石の御影とて雷除けの神符を諸人に輿ふ 社家に電ふる当社の由緒書あり 近世の偽造にして盡付会の説なり  神器に享徳三年藤並某寄附の品あり 其形圓にして處々に金具を打たる板なり 銘に御正軆一面とあり 鏡を納たる箱の蓋の類なるへし
 

天元三年 980年  享徳三年 1454年



 和歌山県の歴史散歩(山川出版社)
 和歌山県神社誌
 平凡社寺院神社大事典 大和紀伊




 須佐神社
和歌山県御坊市塩屋町南塩屋1878 ゼンリン



二の鳥居と赤い狛犬




交通案内
紀勢線  天王寺→和歌山→御坊
御坊南海本社前から稲原方面行きバス 道路:425号線
御坊駅前から印南行きバス 南塩屋下車徒歩30分


 
祭神
素戔嗚尊、天照皇大神、五十猛尊


由緒
 旧別当神宮寺の「古記」によると、永延年間(8世紀末)、当地に大蛇が出没して人畜、作物に害を与え住民を困らせていた。 そこで熊野参詣の神道者の勧めによって、出雲の素盞嗚命の分霊を勧請したところ大蛇は退散したと言う。
 中世には武塔天神宮と号し、天満天神、武塔天神、蔵王権現の三座を祀る神仏習合の神宮寺となって栄えた。 山田庄九か村の鎮守として尊崇を受け、地頭、庄司などから田地の寄進も受けた。
 明治三年、神仏分離し社号を須佐神社と改め、神宮寺の社僧に代わって神職が置かれることになった。 明治六年社格を村社と定められた。明治四十一年神社合祀令により、氏子地域内の小社十四社が当社に合祀された。



お姿



社殿



お祭り
3月10日 は祭神の素盞嗚命のご神徳を称える「おとう祭り」という特殊神事があり、和歌山県無形民俗文化財に指定されている。 氏子五地域の五人の長男が1年間斎戒して、当日神前で大幣を振るって氏子の平安と豊作を祈願する。頭屋制の名残。
10月 9日10日 秋季例大祭


紀伊續風土記 巻之六十七 日高郡 山田荘 森岡村から

○武塔天神社  境内周三百四十間
 本 社 
表行一丈二尺   御輿舎   長床

上岡にあり 明神川南谷塩屋天田猪野々森岡七箇村の産土神なり
祭礼 正月十日 其祭を御當(オタウ)といふ。七村より毎村に十五歳以下の男子一人を出し祭式をなす 其当りしものは一年前より別火すといふ
南塩屋の浜に権現礒といふあり 天神勧請のとき影向の地といふ
古き祭文あり 其文によれば天満天神・武塔天神・蔵王権現の三座を祀れるなり
    社僧別当   神宮寺
産土神の側にあり 真言宗古義名草郡下宮郷紀三井寺末なり


 

紀伊国名所図会より


和歌山県神社誌、平成祭礼cd、神社前の教育委員会の説明板




 大神社
和歌山県田辺市芳養町1029-1 its-mo


交通案内
紀勢線  天王寺→和歌山→芳養「はや」駅の北西500m

 
祭神
天照皇大御神 配 豐受姫大神
摂社 西神社 天疎向津比賣命、大綿津見命、大屋比古命、火具土命


鳥居と社殿



由緒
 熊野街道沿いに鎮座、熊野王子社の一つ芳養王子(羽屋王子)の跡とされる。
 須佐之男命の漂着神伝説がある。紀州西海岸には素盞嗚尊のマレビト神としての伝承が残っている。

お姿
 


西神社と本殿



お祭り
 9月 30日 おとび祭


紀伊續風土記 巻之六十八 牟婁郡 芳養荘 下村から


○若一王子社   境内周百二十間
 摂社二社 愛宕社 庚申社  末社三社 若宮 八王子社 后御前社
  拝 殿
 村中にあり 下芳養荘四箇村 下村 芋村 中村 境村 の産土神にして御幸記に芳養王子とあるは是なり 湯川家領主の時寄附の田五町ありしとそ 神主一人社人四人あり 古文書神宝の類宝永四年(1707)津波にて失流すちおいふ

和歌山県神社誌




 須佐神社
和歌山県田辺市中万呂5 its-mo


交通案内
紀勢線  天王寺→和歌山→紀伊田辺 駅の東2km

 
祭神
須佐之男命 配 稻田比賣命、八王子神

摂社 玉置神社 ほか



由緒
 天王の森と言う小山は岩船山と呼ばれる。かってはこの山の頂上に東向きで鎮座。
 須佐之男命がこの地に到着し、木種を播いたとの伝承がある。
 神武天皇が即位された時に祭祀されたという。
 豊臣秀吉紀州平定時、この社でけが焼き討ちを免れたと言う。紀州の豪族で玉置氏のみが秀吉に見方をして勢力を伸ばしたが、玉置氏の祀る神社であったものと思われる。
 熊野古道中辺路の北側に鎮座する。



お姿
 天王池の正面に鎮座、岩船山の頂上の旧社地とおぼしき場所には磐座があるとのこと。


社殿



お祭り
 7月 7日 夏祭
11月23日 新嘗祭 獅子舞は民俗文化財。寝獅子の際、天狗、お多福が獅子を起こす。その所作は微妙。お多福の作った陽物を右肩にかつぎ中腰で腰をふりふりする踊りは例をみない。五穀豊穣を祈る神事。

紀伊續風土記 巻之七十二 牟婁郡 萬呂荘 下萬呂村から


○牛頭天王社   境内森山周二百八十四間
 本 社  稲田姫 素盞嗚尊 八王子 合殿
 摂社二社  熊野権現 天照太神 社   稲荷社
 末 社 弁財天社     拝 殿
中萬呂村の界小名天王代といふにあり 萬呂三箇村の産土神なり 神主を土井氏といふ


 

和歌山県神社誌、平成祭礼データ、教育委員会説明板



 雷公神社(なるかみじんじゃ)
和歌山県東牟婁郡串本町樫野ナルカミ1037



交通案内
阪和線    天王寺→串本  大島へ渡り車で20分 its-mo
大島の東の端の樫野の南側を「日米修好記念館」の方に行き、途中右に折れ、海岸近くまで降りると最初の赤い鳥居が見える。



祭神
五十猛命
配祀神  誉田別命、事代主命



由緒
 創建年代は不詳であるが、勧請は鎌倉時代寸前と江戸時代の二説がある。江戸時代の社名は鳴神神明社と言った。大島の須江、樫野の産土神として崇敬されていた。明治初め現社名に改称した。 五十猛命を猛烈な台風神とする説があるが、雷神とする伝えがあったのだろうか。
 また、和歌山市内の鳴神社とは名前が同じであり、鳴神社と五十猛命との関連がやはり興味のある所である。



お姿
 入り江に面して鳥居があり、階段を上ると社殿がある。海の音がよく聞こえる神社である。海岸に面しているのは五十猛命を祀る神社としては珍しい。伊豆では、「波の音がうるさい」との事で山の方に遷座したとの伝えがある。
 南紀は台風の通り道であり、五十猛命を祀って、少しでも被害の少なからんことを祈ったのであろう。


鳥居と拝殿



お祭

 串本節で「ここは串本、向かいは大島」の産土神の祭典は、宵宮に行われる火祭りの起源は、往古、鎮座地の下の雷公の浜に神様が流れ着き、これを神社にお祀りしたことからと伝承されている。 走り参りである。10月9日。

紀伊續風土記 巻之七十七 牟婁郡 三前郷 樫野浦から

○鳴神明神社  四尺 六尺 社地周二町

 村の南地下と云う所にあり 須江樫野両浦の産土神なり


 
参考文献 和歌山県神社誌



 雷公神社
和歌山県西牟婁郡串本町串本 niftymap

鳥居


交通案内
紀勢線串本駅 南 1300m



祭神
五十猛命



由緒
 『紀伊続風土記』には、当神社のことは触れられていない。また100m程南には式内社の海神社三座に比定されている潮崎本之宮神社が鎮座、その境内社でもなさそうだ。
 所で、串本の向かいには大島があり、樫野には雷公神社が鎮座している。須江や樫野から串本に移住してきた人々がいて当社を勧請し祀ったのかも知れない。



お姿
 潮崎本之宮神社へ参詣しようとしていて偶然に当社の前に行き着いた。神社の名前もわからなかったが中へ入って見ると、雷公神社と言う石碑が立っていた。自宅へ帰ってから調べていると祭神は大島の雷公神社と同じく五十猛命のようだ。神懸かりではないが、五十猛命に導かれたような気がする。
 社域は広くはないが、木々が茂り、社殿も綺麗である。

拝殿

本殿



お祭り

雷公神社碑  人物像
 



 下里神社
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町下里123 niftymap

東向きの鳥居


交通案内
紀勢線下里駅 北西500m



祭神
建御名方神
 合祀 譽田別命、青彦命、豐宇氣毘賣命、市杵嶋姫命、健角身命、表筒男命、中筒男命、底筒男命、火産靈命、大屋姫命


境内社 下里護國神社「護國の英靈」



由緒
 永禄八年(1565)創建と言う。
 元諏訪神社と称し、宝暦十一年(1761)に大洪水でナガされ、後に現在地に鎮座した。明治四十三年、近隣地域の九社を合祀し、社名を下里神社と改めた。
 近隣の旧村は、五村で、『紀伊続風土記』には、以下のように出ている。
牟婁郡大田荘
 八尺鏡野村 八咫宮 村中にあり 一村の氏神なり 八咫烏を祭るといふ 八咫烏は熊野に縁あれども八尺鏡を祭れることを伝え誤りならむ。(八咫烏神社) 
 粉白村 小祠一社。(若宮神社、秋葉神社、姫宮神社)
 下里村 小祠二社。(八幡神社、明神社、稲荷神社)
 高芝村。(住吉神社、厳島神社)
 天満村 村中に天満宮あり。(天神社)
 さて、祭神末席の大屋姫命の名は『和歌山県神社誌』には記載がない、『平成祭りCD』には載っている祭神であり、どの村から勧請されたのか不明だが、姫宮神社がそれらしい。



お姿
 42号線に面している。木々が多く、朱の本殿は流造、バンガロウのように見える。その前に鈴門。

拝殿

本殿



お祭り
2月  11日 御弓祭
11月  15日 秋季例大祭

全景



紀伊續風土記 巻之七十一 牟婁郡 大田荘


粉白村

○小祠一社

高芝村

八尺鏡野村

○八咫宮
村中にあり 一村の氏神なり 八咫烏を祭るといふ 八咫烏は熊野に縁あれとも村に因る時は八尺鏡を祭れる事を伝へ誤りしならむ

下里村

○小祠二社

天満村

村中に天満宮あるより村名起これり

明治四三年上記五村の九社を合祀し社名を下里神社と改称する。

下里古墳 場所

 当町にある古墳。和歌山県南部では唯一で、和歌山県で最古の前方後円墳とされる。国の史跡に指定されている。 4世紀末から5世紀初めの造営とされる。河内に王権ができた頃。
 全長40m、高さ2.75m。後円部直径22m、 前方部は削平されている。竪穴式石室があり、石室からはさまざまな物品が出土。ガラス碧玉、碧玉製管玉、鉄剣片が出土。古墳は巾およそ5mの濠によって囲まれている。

前方部から後円部を見る。

和歌山県神社誌(和歌山県神社庁)

五十猛命ホームページ

神奈備ホームページ