名草の神々と歴史 巻二一から

瀬藤 禎祥

名草の神々と歴史 巻一から巻二〇

名草の神々と歴史 巻四一から



 名草の神々−21−

 ここで日前神の鏡についてのいくつかの伝承を紹介しておきます。

 朝廷の祭祀を司っていた忌部氏の作である古語拾遺では、先ず、鏡を作っては見たが、もうひとつできが良くない、それで、作り直したとの事です。 作り直された鏡は八咫鏡と言い、皇統を嗣ぐ標の「三種の神器」の一つとして伊勢の皇大神宮の御神体となっているものと思われます。 先に作られた鏡はいわば試作品で、これを日前宮の御神体の日像鏡とする説があります。「日前」と言う名前にこじつけたお話との見方が有力です。試作品と言うことですから紀氏の伝承ではないでしょう。

 日前國懸神宮で頂いた由緒書きには、「鋳造されたのが、伊勢神宮奉祀の八咫の鏡、日前神宮奉祀の日像鏡、國縣神宮奉祀の日矛鏡であります。」と出ていました。「日前國縣大神は、天照大神の前霊に座します」ともあります。「前霊」とは何でしょうか。神の御前に・・と言う言葉がありますが、そこを祀ると言うことでしょうか? どうも日前の字にとらわれた解釈に思えます。

 日前はもとの字としては檜隈、隈を神とする解釈からは日神、火神は考えられます。 漢字にこだわれば檜神、檜は(檜でなくとも木は)こすると火が出ます。実際に木は火をも生むのです。木の国としてはこれも考慮にいれるべきでしょうね。
 せっかく頂いた由緒書きですが、「前」は庭先の先や前後左右の前ではないように感じています。

 ヒノクマについては、「名草郡7」で仮説を出しましたが、皆さんは「日前」をどのようにお考えでしょうか? なお日本書紀気長足姫尊の條に火前国(ひのみちのくちのくに)と言う言葉で肥前国を表しています。「前」には入り口などの口の意味もあるのですね。

 武内宿禰の子に紀臣の祖とされる木の角宿禰(きのつののすくね)がいます。この角の訓みについて、岩波文庫日本書紀に熊野大角の訓の注釈に角はクマと訓める、更にその場合には神の意味があるとしています。 木の神のキノクマ ===>> ヒノクマ と音転があったと考えれば、紀の国にふさわしい神ですね。
 そうすると、紀氏は五十猛命を奉じていたと考えることができます。

 さて、日前国懸神宮に伝わっている『両神宮本紀略』によると「瓊瓊杵命の天孫降臨の時、二つの神宝を紀伊国造の祖天道根命に託して日向の高千穂宮に祭らせた。その後の神武東征の際に、再び天道根命に託され、 紀伊国加太浦に到った。そこから木本に移り、更に毛見郷に到り、琴浦の海中の岩上に日前神、国懸神として祭った。」とあります。
 加太春日神社、木本八幡宮、毛見の濱宮のそれぞれの由緒書きにも記載されています。

 海中の岩上に神が現れるのは、海のかなたからやってくる寄神信仰の名残です。濱の宮の祭祀に携わった氏族は海人であったのでしょう。 紀の国に住み着いた人々や紀氏の祖先も海のかなたからやってきたと伝えられていたのでしょう。


 名草の神々−22−

『探訪神々のふるさと』の中で、松前健先生は「紀国造氏古文書」には御船山という二個の小山があり、一つは西に向いた出船の形、他は北を向いた出船の形をしており、日前大神が乗ってきた船という。と記載されていると書いています。
 和歌山駅付近から日前宮の方を見ると形の良い小山が二つ並んで見えますが、これらを指しているのでしょうか。 所謂、神奈備山とすれば二神が祀られていて不思議ではありませんね。ただ並び方は山は南北、両宮は東西ですから、どうでしょうか。
 風土記の丘のある大日山が何となく西向きの船に見ようとすれば見えますね。

 寄神信仰や御船山の伝承は日前國懸神と海民との強い結びつきを示しています。 またレルネット主幹の三宅善信さんの平成神道研究会報告によりますと、社殿は南向きながら御神体は(こっそり)東向きだそうで、これは太陽崇拝ともとれます。なお太陽崇拝と海人とのつながりは伊勢神宮も同じとされています。

 もう一つの伝承は、「天孫は天降った時に、斎鏡三面と子鈴一合を奉じた。 鏡の一つは天照大神の御霊代でこれを天懸大神、他の鏡の一つは天照大神の前御霊で、これを国懸大神と言う。 今紀伊国名草宮にいます神である。 残る一つの鏡と子鈴は天皇の御餞の神となり、大神に奉仕した。これが巻向の穴師の社の大神である。」とあります。
 ここに天懸大神と言う神が登場してきました。この鏡は伊勢神宮の鏡と言うことになりそうです。 紀伊国名草宮の鏡を前御霊としながら、日前大神ではなく、国懸大神としています。天武天皇崩御の前に、国懸大神に奉幣の記事が日本書紀に見えます。 もともとは国懸大神を祀っていて、日前大神はいなかったと考えることができます。

 濱の宮神社の祭神は天照大神に天懸大神と国懸大神とが配祀されており、日前宮の元宮とされています。天懸大神を日前大神と見てもいいのかも知れません。これについてのもう一つの傍証としては、奈良県吉野郡東吉野村谷尻に日之前(ひのまえ)神社が鎮座しており、祭神を天懸神としています。

 このあたりの伝承は混乱しているようです。後から日前大神、國懸大神をもっともらしく説明を付けたものに思えます。

 次に、上記の話の穴師の社とは大和国城上郡の穴師坐兵主神社の事です。穴師の社と日前國懸神宮との親近性が見えます。 問題は穴師坐兵主神社の祭神とされる兵主神ですが、山東半島の東に祀られていた中国の神で、漢の高祖が「蚩尤:シユウ」を祀って勝利を祈った事に由来するとのこと。貝塚茂樹氏は兵主神とは武器製造の鍛冶屋神としています。 この神を人格神化した日本的表現を天日矛命とする説があります。

 また国懸宮の御神体を日矛鏡とするとの説明もあります。兵主神は謎多き日前神国懸神を解き明かす鍵になるかも知れません。日前國懸神宮は紀氏と大和の王権との力関係、その後、王権とどのように向き合っていったか、そのおそらくは苦渋に満ちた歴史の集積といえるようです。

 後の時代となりますが、崇神天皇の時代に、「豊鋤入姫が天照大神の御霊を奉じて名草浜宮に遷幸した時、両神も琴浦から名草浜宮に遷り、垂仁天皇の時代に現在地に遷った。」との物語があります。 この時、トコロテン的に伊太祁曽神社が山東荘へ遷座したと伝わります。
 なお、豊鋤入姫のさすらいの物語は『倭姫命世記』が出典ですから、平安末期から鎌倉初期に形成された伝承です。

 また、平安時代の初めの宮中にレガリアであろう鏡が三面保存されており、「伊勢御神」、「紀伊御神」「名称不明」と呼ばれていたそうです。 火災があり「伊勢御神」は焼け残ったが、他の二面は損壊したと言います。 それらは「日前神」「国懸神」であったとも伝わっています。 何か、紀氏の朝廷での地位の凋落していく様子を示しているようですね。


 名草の神々−23−

伊勢神宮の八咫鏡については、魏志倭人伝の伊都国とされる前原市の平原の古墳から出土した古代最大の鏡(直径 46.5cm)と同じ位だと云われています。 天の岩戸の壁でこすった傷跡が残っているとの話もありますが、これは江戸時代の目撃譚だったと思います。

 記紀に、崇神天皇が、皇居内の天照大御神を畏れ多いとして笠縫の地に遷座せしめたとあります。 八咫鏡を皇居から出したと言う事です。 大和国城下郡のの鏡作坐天照御魂神社(田原本町)の社伝によりますと、八咫鏡の代わりの神鏡を鋳造した際の試鋳の像鏡を、鏡作坐天照御魂神社の御祭神としたとなっています。 そうすると、本物は伊勢神宮、代わりの神鏡が皇居の内待所に祀られている、その試作品は鏡作坐天照御魂神社と言う事になります。

 斎部氏、紀氏、物部氏らが、朝廷の権力を占有した藤原氏に対抗すべく、伊勢の皇大神宮と豊受大神宮に対抗する軸として、日前国懸神宮穴師兵主神社、鏡作坐天照御魂神社の由緒を深めようとしたのかも知れません。

 天岩戸の前で太御幣を捧げた布刀玉の命(天太玉命)は鳴神社の祭神で、紀伊忌部氏の遠祖です。後に齋部と漢字表記を変えています。 朝廷の祭祀の主役を中臣氏に奪われて、斎部広成が平安時代大同二(807)年に齋部の由緒の深さをアッピールしたとされる『古語拾遺』と言う書物を書いています。これも貴重な史料です。

 日本書紀によりますと天武天皇は紀伊国に居す国懸神に奉幣しています。同時に飛鳥の四社、住吉大神にも行っています。日前神については何ら記載されていません。存在していれば奉幣があってしかるべきだとお思いになりませんか?
 伊太祁曽神社は元々この地にあったと伝わっています。もし國懸神と伊太祁曽神が同居していたならここに伊太祁曽神の名が出ても不思議ではありません。

 國懸神とは伊太祁曽神のことだったと理解するのが自然です。陸奥国磐城郡の式内社佐麻久嶺神社の祭神は五十猛命で由緒には紀伊國日前国懸大神を勧請とあります。傍証にはなります。

 この頃には天智系、天武系と王権の流れは揺らいでいました。大胆に割り切れば、葛城・河内・瀬戸内から百済へつながる系統が天智系、磯城・近江・北陸から新羅につながる系統が天武系と見ることができます。 (古代倭国王朝論 畑井弘氏)

 国懸神は新羅系の神と言えます。それに対して日前神は百済系の神として構想されたかも知れません。 新羅系とした国懸神とはやはり日矛を神体とするとされ、そうすると、天日矛のイメージになりますが、天日矛は新羅の王子と言うことで、 素盞嗚尊・五十猛命の後裔としてもいいのかも知れません。そう言えば紀氏はその秘密系図での祖神を素盞嗚尊や五十猛命としているので、もうひとつくらい☆を増やしてもよさそうですね。

 天武没後に天皇の位についた持統天皇は天智天皇の娘で、王権を再び葛城系に戻しました。 これを見た紀氏は天照大神をも祭ることにしました。檜隈坐国懸神を二つに分けて日前神を創設したと考えることができます。中央の紀朝臣からもつつかれて、かつ天岩戸神話の構想を聞き出し、思兼命や石凝姥命を取り込んだのではないでしょうか。

 紀氏は両天秤をかけて存続を図ったとすれば、戦国時代の真田家のような知恵者だったと言えますね。

 壬申の乱以降、天皇の権威が一層確立・強化されて来たようです。と言うよりは藤原不比等に権力が集中してきます。 おりしも持統天皇五年、十八の氏にその墓記を差し出させています。 勿論紀伊も出しています。紀氏はあわてて天孫降臨や神武東征に天道根命を登場させてこれを祖神とする伝承を作り上げたのかもしれません。

 こうなると、紀氏の本拠地の秋月に國懸神として伊太祁曽神が鎮座しているのは誠に具合がよろしくない。ましてや牟婁の湯への通り道に当たる。 国津神の雄を奉じていては出世にひびく、中央の紀氏もうるさい。 天皇家の祖神と主張できる日前神國懸神を齋祭る形を取ろう、この際、はっきりとわかりやすくする為にも思い切って國懸神から伊太祁曽神を分離してすこし東の山の向こう遷座してもらえとなったのでしょう。


 名草の神々−24−

 紀氏が祖神として天道根命を持ち出したのは何故か?と言うことが解明される必要があります。 古事記では木の国の造の祖として、天照大神と素盞嗚尊の誓約の中で誕生した五男三女神の中の天津日子根命が記されていますが、 紀氏の系図にも出てきていないことは「名草の神々−16−」に書いた通りです。
 次に、その妹が武内宿禰の母親となった宇豆比古の名が出てきます。また崇神天皇記に「木の国の造、名は荒川戸弁」 との文言があります。
 「−16−」で五十猛命の末裔にも宇豆彦の名があることを書きました。
 紀氏には祖先の名として宇豆比古の名は伝わっていたのではないかと想像しています。 その親として、大名草比古の名を構想し、紀の国との由縁を記したのでしょう。

以下☆屑の話としてお読み下さい。五十猛命の縁の地に石見国があります。島根県太田市に五十猛町があり、五十猛命の上陸伝承を語る五十猛神社が鎮座しています。 この石見国造の祖・薩佐奈胡命の親に荒川戸弁のことではとされる鬼刀彌がおり、その祖に天道根命がいるのです。
紀氏の系譜は天道根命−・−・−・−鬼刀彌−久志多麻命−大名草比古命−宇豆比古(木の国造)とつながっています。
 途中の久志多麻命の名ですが、奇玉、櫛玉のことと思われ、物部の遠祖の饒速日命を櫛玉饒速日命と記したりしますが、そのかざり部分だけを以て名前としています。 どうも具体的な祖神の名前とは思えません。 この久志多麻命は天道根命..鬼刀彌の系統につなぐためのクッションではないだろうかと思っています。
天道根命を祖神とする必然性の証にはほど遠いお話でした。m(_ _)m

 高天原に話を戻します。神憑りした天宇豆売命の仕草と八百万の神々の笑い声に天照大神は天石戸を少し開いて外をうかがいます。 すかさず、天手力男が戸をこじ開け、天照大神を外に連れ出します。高天原に光が戻りました。

牟婁郡の式内社に天手力男神社があります。現存していませんが、後裔社として熊野本宮大社摂社の御戸開神社、熊野速玉大社境内の手力男神社(鏑の宮)と、なんと遠く離れた名草郡の力侍神社が論社(式内社の候補社)となっています。 この名草郡の力侍神社も謎めいています。
 ある女性の研究家の方が名草戸畔との関連を追及されているやに聞いています。

 さて、天石戸の話は誠に不可思議な話です。日本の最高神であり、皇室の祖神が、知恵者の思金の神のトリックに引っ掛かって再登場しています。 天照大神は騙されて再登場した神なのです。正しい形で出現した神とはされていません。
 記紀を編纂していた連中は、本心では天照大神を皇室の祖神とは思っていなかったのでしょうね。糞の上に座らせたりしています。 それを認めていた藤原不比等も、腹の中では天照大神や朝廷を軽視していたのでしょう。
 騙される体質、この体質は現在の我々日本国民にも受け継がれているようです。


 名草の神々−25−

  歴史上中臣氏(藤原氏)は大化の改新での中臣鎌足の頃から登場してきます。それほど古い時代からの豪族ではないようです。 それが、記紀で重要な働きをするように記載されているのですが、藤原不比等が時の権力を背景におのれの祖神をでっち上げ、節目節目にこの神を割り込ませたのではと言われています。

 余談ですが、今東光氏は『毒舌日本史』の中で春日大社の先の宮司さんが、 「藤原氏の祖先は天兒屋根命でもなければ鎌足でもない。不比等であり、不比等は天智天皇の子であるが、鎌足の子として育てられた。」と言われていた話を紹介しています。

 後に触れるでしょうが、天孫降臨の命令者として、高御産霊神と天照大神とが混在して出てきます。 また、降臨した邇邇芸の命(瓊瓊杵命)は高御産霊神の娘と、天照大神の子の天忍穂耳命の間にできた子供となっています。 ニニギの命に対して高御産霊神は外祖父で、これは聖武天皇に対する藤原不比等の立場と同じです。 系図上では天照大神はまさに元明天皇に当たりますが、その存在感は持統天皇を想起させます。日本書紀は元明天皇の頃に完成していますし、不比等は完成を待つように亡くなっています。

 さて、天照大神が出て来られたので、高天原と葦原の中つ国に光が戻りました。八百万の神が集い、須佐之男命の持っている物を没収し、手足の爪を抜いて追放しました。 須佐之男命の二番目の追放です。再び母神のイザナミノ命の坐る根の堅州国へ彷徨うことになります。

 古事記では、追放された須佐之男命は食物を穀物の神である大気都比売に乞います。 大気都比売は口や尻から種々の食物を取り出しました。これを見た須佐之男命は汚いものを食べさせると思って、この神を殺します。 殺された大気都比売の身に穀物が成りました。
 唐突に穀物起源の神話が出てきます。女神の死体から穀物が成ると言う神話は広く東南アシアに分布しているそうです。 死体化生神話と言います。また国生み神話では粟の国(阿波、徳島)を大宣都比売といい、とあります。
 高天原を追放されて次に記載されている国が阿波の国です。高天原は一体どこに比定しての物語なのでしょうか。 日本書紀本文では高天原からの降臨先として出雲、安芸国、新羅国、筑紫が出てきます。

 「天降り」とは、高天原の神々が行う事であって、近年は霞ヶ関の役人が「天下り」をやっているようで、まだまだ日本は官尊民卑の時代ですね。 海もアマですので、「海降り」との解釈があります。要するに朝鮮半島辺りから南下してきて、日本列島に到着する事を意味しているとの解釈です。 おそらく、その様な事例は多かったのでしょう。民族と言うものは移動するようです。
 よく似た言葉に「雨降り」があります。これは垂直降下のイメージです。須佐之男命が高天原から追放された時、霖(長雨)降り、青草を結び笠蓑として宿を乞うのですが、留り休むことも出来ず、風雨甚だしい中を苦しみつつ降ったとあります。こうなると山の上から下るイメージです。倭建の命(日本武尊)の伊吹山下りを思わせます。

 神話に出てくる場所をいちいちどこだと探すのは、そこから何か歴史的なものがつかめるのではとの期待からですが、「高天原はどこだ」と言う問いも「天照大神=卑弥呼」説の人にとっては邪馬台国の位置論にかかわる重要なテーマみたいです。 天の安の河原に八百万の神々が集まって、天の金山の鉄を取って鏡を作ったとあります。

 天の金山の候補地としては、福岡県田川郡香春町に銅が取れる香春岳と言う山があります。 「かわら」と読みます。炭坑節の一山二山三山越え〜♪の山ですが、ここは、筑後川上流の甘木市の東になります。 この甘木市には、大和と同じような地名が同じような方向に並んでおり、権力と人々がここから大和に入ったことを伺わせると思います。

 紀の国は筑前国基肄郡辺りに比定されています。ここには五十猛命が植林を始めたとする基山があり、麓に荒穂神社が鎮座しています。
 基山小学校ホームページ http://www.saga-ed.go.jp/school/edq12001/title.htm の中の「ようこそ基山へ」をご覧下さい。

 余談ですが、この三輪山は本当はここだ!との説もある香春岳の、三番目の山の上部半分がセメント材料として削り取られています。実に歴史的には由緒の塊見たいな山ですが、よそ者の小生なんかには知る由もない経済的事情が地元にあるのでしょうが、誠に残念な気がいたしました。
http://www.kamnavi.net/toyo/kawara.htm に新旧の写真を入れてあります。

 邪馬台国位置論ですが、駅弁邪馬台国と称されるほど、全国どこへでも持っていける理屈を付けられると言うこともあり、多くの関心を呼んでいるようですが、 紀の国へ持ち込むのは苦しいようですね。伊都郡と丹生都姫をして邪馬台国と卑弥呼、天野を高天原との説はあったようですが。・・ しかし一般的には、和歌山は邪馬台国から遠絶国とされる鬼国や鬼奴国とされるケースが多いようです。 どなたか、「邪馬台国は紀の国だった」をものにして頂けませんか。知事さんあたりから表彰状がくるかも。
 また余談ですが魏の遣いが「卑弥呼女王はどこにいますか?」と尋ねたら「山たい」と答えました。九州弁です。邪馬台国九州説の極みです。


 名草の神々−26−

 須佐之男命の天降りから話がそれました。いよいよ須佐之男命、五十猛命の活躍の話になってきます。
 古事記では須佐之男命は出雲に下って稲田姫を助ける八俣の大蛇退治の話に入ります。

 また、日本書記の一書(第四)では次のような話が出てきます。

 素盞嗚尊(須佐之男命)は、其の子五十猛神を率いて、新羅国に降り、曽尸茂梨の処にいました。 そうして興言して曰はく、「此の地は吾居らまく欲せじ」とおっしゃって、埴土で船を作って東に渡り、出雲の国の簸の川の所にある、鳥上の峯に到りました。 そこに人を呑む大蛇がいたので、これを斬りました。(中略)初め五十猛神、天降る時に、多くの樹種を持って下りました。しかし韓地には殖えずして、尽に持ち帰りました。 遂に筑紫より始めて、凡て大八州国の内に、播殖して青山に成さないところはありませんでした。 このゆえに、五十猛命を称けて、有功の神という。則ち紀伊の国に所坐す大神是なり。とあります。

 日本書紀の一書(第五)の伝え
 素盞嗚尊(須佐之男の命)が言われるのに、韓郷の島には金銀がある。もしわが子の治める国に、舟がなかったらよくないだろう」と。そこで鬢を抜いて杉、胸毛から檜、尻毛から槙、眉毛を樟となしました。 用途として杉と樟は船、檜は宮、槙は寝棺を造るのに良いされ、そのために木種を播こうと申され、その子の五十猛命,大屋津姫命,柧津姫命の三柱の神がよく木種を播いた。 則ち、紀伊国に渡られた。素盞嗚尊は熊成峯から根国に入られた。

 日本書紀にはそれぞれの豪族の伝承がこのような形で挿入されています。実際に日本書紀を見ていますと、五十猛命の話は唐突に出てくる感じです。 紀清人と言う紀氏の出身の編集委員がこの伝承を取り入れてくれたのでしょう。紀清人さんに感謝です。

 曽尸茂梨の処とある曽尸茂梨とは何か、地名なのか、する処と言う意味か、とこれが謎になっています。

 ソシモリと言う言葉はここに一度しか出てきません。特定の地名を指しているのかもしれません。韓国は慶州の牛頭山とする説や高霊(大加耶)の加耶山があります。大加耶辺りからは多くの人々が渡来して来たり、こちらから行ったりしています。 いずれにしても、神様の動きです。これを探索したとしても、紀清人さんがどこのつもりだったかしか出てきません。

 ソシモリより重要な一項があります。それは「もしわが子の治める国」と言う言葉を素盞嗚尊が言っている事です。「わが子」とは五十猛命です。 この「国」とは日本列島を指すものと理解できます。五十猛命は日本の最高の神であると言っているのです。
伊太祁曽神社を氏神様とする瀬藤としては勿論依存のない事ですが、他の1億2千万人の日本人はどう思うでしょうか。
 それにしてもこのような重大な事柄が日本の正史とされる日本書紀に記載されているのですから驚きです。この国では長らく、伊勢神宮の祭神が神々の頂点でした。しかし本当の所は、伊太祁曽神社の祭神こそ神々の頂点の神だったと言えます。 Oku-papaさん、Oku-Jrさん、皆さん、これは凄いことですよ。
 日本の最高神であるもうひとつの証拠をあげておきましょう。 神様のカウントは柱を単位とします。すなわち柱は神なのです。古代の柱は木で出来ています。伊太祁曽の神は木を植えた神です。神々を造った神ですから、最高の神なのです。\(^O^)/


 名草の神々−27−

 大加耶は朝鮮半島の随一の鉄産地でした。この地の所有を巡って倭国も入ってのせめぎ合いの歴史が繰り返されました。 倭国からも多くの人々が行き、百済の将軍になったり、また現地で妻を娶り子をなしたようです。彼らの中には韓子と名付けられた者もいます。 おそらくは韓子も含めて大加耶からも多くの人々がハイテク技術を持って渡って来たのでしょう。その時代には現在のような国家の概念はなかったのかもしれませんね。
 鉄資源を石油資源に置き換えて、クエート=大加耶、イラク=新羅、アメリカ=倭国のような図式があったと説く人もいます。(聖徳太子と鉄の王朝 上垣外憲一)

 この秋にも、素盞嗚尊に縁のある神社の宮司さん達が曽尸茂梨ツアーをされるやに聞いています。実際の信仰の原点が曽尸茂梨だと言う事でしょうか。 また、紀の国の歴史を語る人は一度ならず候補地に足を運んでいるようです。 「曽尸茂梨を見ずに紀の国を語るな」と言う事でしょうか。

 一書(第四)では五十猛神一柱が樹種を日本全国に播いたように表現されており、その結果「有功:いさお」の神とされ、この神こそ紀伊の国に所坐す大神であると説明されています。「有功」の名は園部の所にその地名が残っており、五十猛命を祀る伊達神社(式内大社)が鎮座しています。 現在の伊達神社は元の園部神社に覆い被さっています。なお、五十猛命には別に勇猛神ともされ、いさましい、から「いさお」となったのかも知れません。

 紀氏が五十猛命信仰を持ち込んで、先に伊達神社でこの神を祀ったのかも知れません。その頃(4世紀末〜5世紀初めか)は紀の国の国魂神は大屋彦神であって、 現在の日前國懸神宮の処に祀られていたと考えることが出来ます。後に、紀氏は紀の国統治の都合上、大屋彦神と五十猛命を習合させ、同じ神だとしていったのでしょう。 京都の八坂神社には素盞嗚尊の子神の八柱御子神が祀られていますが、その中には五十猛神も大屋毘古神も出てきます。この神々が同一神であれば、七柱の御子神になりますよね。

 しかしながら八坂神社は八坂神社、我が伊太祁曽神社の祭神が五十猛命であり、亦の名を大屋毘古神とすることに何ら問題はありません。 紀の国では五十猛命が大屋毘古神と習合したと言うか、襲名したと考えれば良いわけで、これが八坂神社は別にして一般的には通用しているようです。

 伊太祁曽神社には、弥生時代以前とそれ以降の紀の国魂の神が鎮座していることになります。 まさに、紀伊の国に所坐す大神を祭るにふさわしい神社といえます。 また、かっての熊野古道が境内の側を通っています。メインストリート沿いの大社として、牟婁の湯へ通った天上人にも、樹木説話と神社のたたずまいは強く印象づけられたのでしょう。

 筑紫には五十猛命が樹種を播き始めたとの伝承が残っており、また肥前や出雲には上陸の伝承があります。これは、曽尸茂梨から紀の国へのルートに、出雲経由だけではなく、九州経由があったということです。それぞれ、五十猛命を奉戴した氏族がそのルートを通って半島と行き来をしていたことを物語っているのでしょう。


 名草の神々−28−

  前回、肥前に五十猛命の上陸伝承があると書いたのですが、おそらくは佐賀県有明町の稲佐神社に伝わっていると考えて、連休に行って来たのですが、 どうもその伝承に行き当たりませんでした。こういう調査は幾度か現地を訪れ、町の教育委員会などのも立ち寄らねば、つかみにくいものですね。 サラリーマンをやっていると、休日の活動が主になりますので、ここいらがつらい所です。リタイヤ後の楽しみですね。

 出雲の五十猛命について触れておきたいと思います。
 出雲には「同社坐韓国伊太氏神」と言う名の神社が式内社で六座あります。(氏は下に_。低のつくりです。)
 例えば玉造温泉がある玉湯町には「玉作湯神社同社坐韓国伊太氏神社」と言うように社地を独立して持っているようではなく、敷地内に祠を間借りしているるやに見える鎮座の仕方です。 この伊太氏神をして五十猛神、伊太祁曽神としたのは天保十四(1843)年に千家俊信と言う方で、現在まで大方の認める所となっています。

 さて、韓国伊太氏神社について下記の疑問が生じます。
 1.何故、頭に「韓国」がついているのか?
 2.何故、式内社に指定されている程の神が、居候的神社の位置づけとなっているのか?

 「韓国」がついているのは、勿論韓国に深い縁があるからです。
 朝鮮半島から海流に乗りますと、出雲や敦賀・能登の海岸に流れ着くようです。往古の新羅からの道すなわちシルクロードと言えるでしょう。 須佐之男命や五十猛命の神話にあるように、これらの神々は韓国との交流の中から出現した神として、帰国した人々や渡来してきた人々が齋祀った神と言うことを示していると思われます。 すなわち、半島でも祀られていた神々であり、その日本名が伊太氏神であるので、頭に韓国を付けたと言うことではと思います。

 では、半島ではどのように呼ばれていた神であったのでしょうか?
 半島の建邦神(国を建てた神)とされるのは檀君です。その父神が桓雄で、桓雄が神檀樹の下に天降って、熊女を娶って壇君が生まれます。 『式内社の研究』を著述された志賀剛さんは、偉大なる壇君をして伊太氏神と呼び尊んだと解説をされておられます。
 現在でも韓国では、桓雄や壇君は崇拝されているそうで、渡来人を束ねる役割を持った氏族としては、祖神としてこの神々を奉斎してみせることは、極めて意味の大きいものがあったと思われます。

 多くの渡来系の神々がいますが、宇佐八幡の神のように「古ヘ吾れは震旦(シンタン)国(チャイナのこと)の霊神なりしが、今は日域(日本のこと)鎮守の大神なるぞ」とでも、託宣をしておいてくれれば、判りやすかったですね。

 2番目の疑問の居候神に就いてですが、野城神社同社坐大穴持神社、山狹神社同社坐久志美氣濃神社等何も韓国伊太氏神社だけが同社坐となっている訳ではありません。 元々が独立社であったと言う事はそれを祀る氏族も独立した状態で存在していたのが、地域の支配関係の変化などで、複数の氏族が混在するようになり、神社も統合の歴史があったものと考えることは出来ないでしょうか。 特に韓国伊太氏神を祀る人々は少数だったので、近隣の氏族の中へ飲み込まれていったので、同社坐の様に居候ケースが多くなったと言えるのではと考えています。

 なお、出雲国に式内社として六座あった同社坐韓国伊太氏神社は全て廃絶しており、近世に再び復活して社殿が建てられたもので、連綿と続いてきた訳ではありません。

 居候でも式内社に選定されているのは不思議な気がします。出雲の式内社の数は大和、伊勢につぐ多さです。出雲国から申請があった場合、無条件に認めたのでしょうね。 朝廷側としては国を譲ってもらったとの負い目でもあったのかも知れません。また出雲国では居候とは言え、古くからの神威の高い神とされていたのでしょう。

 紀伊続風土記には、紀の国の五十猛命は出雲から持ち込まれたように記載されています。記紀の記事を基本に考えますと、素盞嗚尊・五十猛命は高天原から、新羅のソシモリに天降って、さらに出雲へ戻ったことになっているからです。

 瀬藤は五十猛命を紀の国に持ち込んだのは紀氏であろうと思っています。 五十猛命を全国区の神々にしたのも紀氏であったと考えています。紀氏以外、そのような力のある氏族は紀の国にはいなかったと思われます。
 所が、紀氏のルーツは出雲方面よりはどうやら九州方面のようです。九州以前には半島だったかも知れません。これは確証はありません。
 紀氏のルーツが紀の国の五十猛命のルーツにも重なることになります。


 名草の神々−29−

 素盞嗚尊と五十猛命三兄妹神の植樹神話はどのように形成されたのでしょうか。
 紀の国に坐す神だから、木にかこつけたでっちあげ物語だとする身も蓋もない見方もありますが、でっちあげの証拠もありません。
 勿論、以下の話も状況証拠を述べるに過ぎません。

 日本の山や野は元々木だらけだったはずです。所が木の消費が盛んになって、ある段階には山や野に木を植えなければならないと覚った時期があったのでしょう。

 木が消耗されたわけ
 一つは「焼き畑農業」が考えられます。やっていた経験のお持ちの方はおられないでしょうが、見られた記憶をお持ちの方はおられるかもしれません。 九度山の松本さん、幼い頃の記憶にございませんでしょうか? 記憶されていましたら、是非ご紹介下さい。
 焼き畑農業は、縄文時代から1950年代までは行われていた農法です。山裾の区画の一部を焼いて、そこに芋等を植えるのです。 芋、稗、豆、5年位で次の山裾に移るそうです。跡地は、自然の復元を待ちます。再び森になるのを待つのです。 おそらく、苗木を植えてやると、復元する期間が短縮できたんではないでしょうか。

 焼き畑農業でいささか人口が増加したとすれば、今までより、建築や造船や橋をかける為に多くの木々が切られたのでしょう。また、焼き畑の面積も広がっていったのでしょう。

 もう一つが、「金属製錬」のための「炭」を得るために木々を伐り尽くすことです。この場合の木々の消費量は桁ちがいだそうで、山単位で消費していったと言われます。 弥生時代には銅剣・銅鐸などが作られていましたし、その後、鉄器の著しい普及があって、食糧増産、人口増加、領土拡大、戦争、と鉄の需要も多いに増大していったのでしょう。

 ご承知のように、山林はダムの役割を持っており、復旧することは渇水対策と洪水対策に不可欠であることを現代の私たちは知っています。お隣の国辺りでは、やっと最近気が付いたように思えます。 4月4日の日経新聞には、北京の近くまで砂漠化が進んできたとの記事がありました。春の黄砂の量が増えているそうです。
 大阪の淀川流域や、紀の川の流域もそうですが、縄文から弥生時代あたりにかけて平野が大きく生成されていきました。 これがまた国生みにも見えたのです。焼き畑、金属用炭焼き等によって、山に木がなくなり、山の土が流れだして、平野を広げたと思われます。

 八俣の大蛇の物語の出雲の簸川も、その上流で良質な鉄がとれたそうで、木々がなくなっての洪水頻発で下流の稲田が被害にあっていたのを、須佐之男命が助けたと解釈する向きもあります。 稲田姫とは早乙女のイメージでしょうか。五十猛命も父神に協力して大蛇退治に加担したと伝える神社もあります。出雲仁多の伊賀多気神社やその上宮の鬼神神社で、五十猛命を祭神としています。 木々がなくなっての洪水の被害を防ぐべく、乱暴に伐採するオロチを放逐し、山々に植林を行わせしめたと理解することもできます。

 さて、五十猛命の話になると止まりませんので、もう少しおつきあい下さい。 樹種を播く神の五十猛命はどんか神様だったのでしょうか、どうやって木種を播いたのでしょうか。
 伊太祁曽神社の奥宮司(Oku-Gujijii)はキャラバンシューズを履いた神と表現されました。 これは、国土開発に自ら汗をかかれた国津神としての素晴らしいお姿をわかりやすく教えて頂いたのですが、 更に瀬藤の愚説を付け加えますと、五十猛命は鳥をあやつった神ではなかったかと思っています。

 それでは、何故に、鳥の親分見たいな神様だったのかですが、山々に木種を播くのは鳥の役割です。離れ小島に木が生えているのは、鳥が種を運ぶからです。
 須佐之男命と五十猛命は出雲へ天降ったのですが、その天降った山の名は、現在は船通山と呼ばれていますが、かっては鳥上の峯と言われました。 鳥の神の山です。山の名前がチャント鳥神となっています。

 縄文時代は樹林の時代です。鳥は鬱蒼とした樹林の中から飛んでくる、空高く飛び上がるまさに神々の遣いでした。 樹木や鳥を神と見るのは最も古い神観念の一つです。

 太古、大海原を舟でただよい、鳥を飛ばして陸地を探す、ノアの箱船のような話はあったんだろうと思います。 鳥は大海原の神としての航海の神でもありました。佐渡島の度津神社では、まさに、五十猛命は航海安全の神としても祀られています。


名草の神々−30−

 須佐之男命と櫛稲田比売の六世の孫に有名な大国主神が登場します。母神は刺国若比売と言い、その父神を刺国大の神と言います。 続風土記では、和歌山市片岡町の刺田比古神社の祭神を、この刺国大の神としています。しかし、片岡の地は大伴氏の居住した所で、現在の祭神は大伴氏の祖神で、「刺田は刺國の誤ならんか」と神社の名前すら間違いとするのはどうかと思います。延喜式神名帳にも刺田比古神社とでています。
 日本書紀では大国主は須佐之男命の子供となっています。

 おおきな袋を肩にかけ♪〜 の大国主です。日本の黎明期に各地で耕地を開拓していった人々のリーダー的な人が祀られたのでしょうか。 インドの神の大黒天と読み方が同じなので、習合していますが、本来は別の神様です。 大国主神はまた多くの名前を持っています。それ故か大名持神と言う名を持っています。
 大国主は各地で妻を求めて頑張っています。五十猛命は木種を播いた神ですが、大国主命は子種を播いた神です。

 大国主は八十神に疎まれて、幾たびか命を落としたりします。御祖(母神)はこのままでは「遂に八十神に滅さえなむ」と言って、木の国の大屋毘古の神の御所で違へ遺りたまひき。 とあります。大屋毘古の神の下に避難したと言うことです。

 貴志川町に大国主神社が鎮座しています。続風土記によれば、八十神等の危難から逃れ、五十猛命のもとへ赴こうとした大国主命が当地を訪れたことを由緒としていると記載されています。近くに龍神の住むと言われた国主淵(くにしふち)があります。
 和歌山市内の朝椋神社はやはり大国主命を祭神としている延喜式内社です。かっては九頭(クズ)大明神と呼ばれていました。

 「クズ」の名を持つ神社は大和の吉野、都祁や紀の国に多いようです。 熊野側にそって栗栖(クルス)と言う地名もあります。この名前の印象として、何か土の匂いというか、古代の雰囲気を漂わしているように感じます。
 皆さんのお近くにも「クズ」「クルス」「クニス」などの地名や神社が残っていませんでしょうか。見つけられましたらお知らせ下さい。

 八十神がせまってきたので、大屋毘古神は大国主を「須佐之男命の坐します根の堅州国にまゐ向くきてば、かならずその大神議りたまひなむ」とおっしゃって逃がしました。

 さて、大屋毘古神の名はイザナギノ命、イザナミノ命が国生みの次に生んだ家屋の神でしたが、ここに大国主命を助ける命の神(伊太祁曽神社由緒による)として登場してきました。 旧事本紀と言う書物ではこの大屋毘古神と五十猛命は異名同神としています。 古事記を見ると本来は違う神様でしょうが、後世に習合して同じ神となったと言うことでしょう。

 大屋彦の妹神の大屋都姫を大谷津姫と表記する例があります。屋は谷、古モンゴル語で谷は detu です。 一方、五十猛命は伊達、射楯の神、ダテと読まれます。高句麗にゆかりのあった紀氏で漢字に通じていたインテリが、発音が似ていることを発見したのかもしれません。(☆ゼロのお話でした。<(_ _)> )

 大国主命は紀の国へ来てから須佐之男命の根の国へまいります。この根の国はイザナミノ命の坐す根の国のはずです。古事記ではイザナミノ命は広島県と島根県の境の比婆の山に葬られたとあるのですが、 出雲から紀北へ逃げてきたとすれば、更に熊野の方面へ向かった様に見えます。日本書紀(一書第五)では三重県熊野市の有馬をイザナミノの墓所としていました。


名草の神々−31−

  大国主は須佐之男命から与えられた試練を乗り越えて、須佐之男命の娘の須勢理毘売をともなって、根の国から脱出します。この時に須佐之男命の祝福を受け、本当の大国主神となります。 須佐之男命の祝福の中に「高天の原に氷椽高して居れ」との言葉があります。
 この「高天の原」という言葉は何でしょうか。一応枕詞との説明が多いのですが、本当にそうなのでしょうか。瀬藤には、須佐之男命が大国主神に高天の原に君臨するように指示しているように読めるのです。
 前に須佐之男命と五十猛命の所で、五十猛命をして「わが子の治める国」と国の最高の神であるとの表現を紹介しましたが、ここでも大国主命を高天の原に君臨するよう須佐之男命は言っています。須佐之男命には、自分自身を高天の原の勝者、すなわちおのれを最高の神とする根強い偏執があったということでしょう。

 本来の日本国の支配神は縄文時代から脈々と国土を切り開いてきた国津神であって、それを渡来してきたであろう天津神に簒奪されたものとの思想が残っていたのでしょう。 もしくは須佐之男命に託して、「紀氏こそこの国を統治する血脈だ」と言いたかったのでしょうか。しかし紀氏もまた渡来系の匂いがします。
 渡来という観念がおかしいのかもしれません。どうしても現在の日本地図を元に考えてしまいますが、 朝鮮半島の南側にも倭人の国があったとか、大陸の揚子江付近にも倭人がいたとか、ボーダーレスの状態だったと考えるのが正しいのかも知れません。

 北海道はアイヌのもの、アメリカはアメリカインデアンのもの、オーストラリアはアボリジニのもの、今となっては、日本列島は五十猛命や大国主の子孫のものと言った所で、これはせんないことですね。 しかし中東ではイスラエルとパレスチナが2000年前の領土と聖地を争って、未だに血を流し続けています。彼らも日本人のようには多神教でいけば、何も殺し合いまですることにはならないでしょう。

 司馬遼太郎さんの本に出ていましたが、大国主の家系を継いできた冨氏と言う出雲の方が産経新聞社に勤務しておられて、 その方の家系には口伝として、大国主の国譲りの段が伝えられており、そこを思い出しても、「身体がふるえる程腹立たしく思う。」と語っていたとありました。 もとより、江戸時代くらいの祖先の誰かがでっち上げての話かもしれませんが、インテリで信じていることがすごいと思います。

 さて、大国主は子作りと国作りに頑張ります。
 大国主の国作に少名彦那神が協力します。大小のコンビです。

 ある方が少名彦那神とは秦の徐福がつれてきた童男童女数千人を指しているのではないかとの仮説を述べておられました。 大国主神が大国主として熊野から登場しますが、まさに徐福一族の姿をイメージしたのかも知れませんね。

 南紀には徐福上陸伝説があります。新宮市の阿須賀神社には徐福宮があり、近くの徐福公園には徐福像があります。 三重県の熊野市の波多須神社にも徐福社があります。この辺りは黒潮にのって漂着する人々が多かったのでしょう。

 国作りの途中で少名彦那神が常世の国へ去ります。次に大国主の神に大和の三輪の大神神社の大物主神が協力します。


名草の神々−32−

  大国主神は各地で国作を進めていました。その頃高天原では、天照大神が「豊葦原の千秋の長五百秋の水穂の国は、我が御子正勝吾勝勝速日天の忍穂耳の命の知らさむ国」とおっしゃっています。 豊葦原の千秋の長五百秋の水穂の国とはこの国の美称で、豊かな原で穀物がよく生育する国と言う意味です。
 そうして、「この国には、ちはやぶる荒ぶる国つ神どもの多なると思ほすは、いづれの神を使はして言趣[ことむけ]なむ」と開拓にいそしんだ国津神をときふせる相談をしています。 イザナギノ命、イザナミノ命がこの国を生んだ。その後継者の天照大神の子孫が統治すべきだとの論理です。 育ての親より産みの親のロジックです。記紀神話の言いたかった点なのでしょう。
 さまざまな攻略がなされますが、結局は剣の威力(建御雷之男の神)を背景として大国主命に国譲りを認めさせます。 大国主の神は出雲大社に鎮まる事になります。
 出雲国造(古代の出雲藩の大名に相当)が交代に際して朝廷に示す出雲国神賀詞は、大穴持命(=大国主命)が国土を天孫に譲って出雲の杵築へ去るに当たって、自らの和魂と子女の御魂を大和に留めて皇室の守護とすべき事を誓うストーリィですが、大和王権への服属儀礼だと言われます。
 ここにあるように、天津神は国津神を追い払います。しかも国津神の保護を受けようとするのです。 これが天津神の一般的なやりくちだそうです。この国に住む者を守るのはこの国の神と言うことです。

 余談ですが、吉野祐子さんによりますと、国譲りの主役二柱を祭る出雲大社と鹿島神宮とは日本列島の最長の陸地上の東西線だそうです。一度地図でご覧下さい。

 国譲りの次に天孫降臨です。この当たりの記紀の語る物語に紀の国は直接には登場してきません。 まえに書きましたが、天孫降臨に際して、紀国造家の祖の天道根命が鏡を持ってお供したとの話が日前國懸神宮に伝えられています。

 日本書紀の一書第二に天忍穂耳尊に従って降った供の中に、紀国の忌部の遠祖手置帆負神(たおきほおひのかみ)を以て、定めて作笠者(かさぬひ)とす。 とあります。古語拾遺に「其裔紀伊国名草郡御木・麁香二郷」と出てきます。御木は上小倉神社の鎮座する和歌山市三毛でしょうが、 麁香については、三船神社の鎮座する那賀郡桃山町に荒川と言う地名があり、ここだと思っていますが、市内に旧忌部村の井辺が残っており、この辺りに比定する方もおられるようです。 紀伊続風土記には天太玉神社と作笠者を連想させる大衣笠持社が、井辺村に鎮座していたと記されています。

 邇邇芸尊が誕生したので、天忍穂耳尊に代わって降臨します。いよいよ天孫降臨です。


名草の神々−33−

   降臨した邇邇芸尊は木花佐久夜毘売を見初めて娶ります。一夜にして懐妊し、密封した家屋に火をつけて三人の子を生みます。 懐妊しやすい、多産、火の中、この物語は、日本に古くからある山姥伝説が入り込んでいるようです。

 ここで山姥伝説を紹介します。
 長野県下伊那郡に伝わる話【多産】
 山道を大山祇命が通りかかりました。命は山姥がお産で苦しんでいるのを見ると、かけよって介抱しました。山姥が水の事を頼むと、命は蕗の葉二枚にたっぷりと水を汲んで山姥に呑ませてやりました。
 山姥は元気を取り戻して、命に「これから子産みをはじめるから、取り上げて名前をつけてくれ。」と頼みました。 命は「さあ産め。」と引き受けました。命はこの時七万八千人の子供を取り上げました。

 山姥伝説をもうひとつ、高知県香美郡香来北町に伝わる話を紹介します。【火の中】
 山姥が産気づき、岩屋でお産をしていました。蕎麦を播く季節で、山姥の懇願にも関わらず、村人は山を焼き払っていました。山姥は逃げられず、焼死してしまいました。その後、村に災いが多く起こりました。どうも、山姥の祟りだろうとして、岩屋から、頭の骨を取り出して、山の神として祀りました。 それからは、災いが起こらなくなりました。

 多産、火の中、木花佐久夜毘売の父神が大山祇神で、この出産は山姥の伝承を取り入れた雰囲気をかもしだしています。
 新たに登場してきた天津神が国津神の娘を娶ったお話でした。

 木花佐久夜毘売が生んだ三人の子の内二人が海幸彦、山幸彦です。もう一人の子は火明命と言い、尾張氏の祖とされます。火明命の子を天香山命と言い、別の名を高倉下とし、新宮の神倉神社の祭神とされています。 尤も後の熊野の支配者が高倉下の子孫を称していて、赴任してから祖神を祀ったとの話もあります。
 磐座(いわくら)を祀ることは南紀の信仰の原点だそうで、社殿を造らない神社(古座町田原の木葉神社)や矢倉神社(串本町高富)と言う名で残っています。この「や」は八坂神社の「や」のような神への呼びかけのような意味があったのかも知れません。 神倉、高倉、それぞれ、磐座への敬称でしょう。

 さて、丹後の海部氏の祖も火明命で、その孫が神武東征の水先案内を勤めたとされる椎根津彦またの名を珍彦(うずひこ)と言い、大和国造の祖とされます。 「うずひこ」を宇豆彦と書く紀氏の祖とすれば、紀氏の系図の大名草彦−宇遅彦−宇豆彦と重ねて見てみれば、火明命−起位武命−珍彦と並び、まんざら海人族の祖の火明命と紀氏とも無関係ではないのかも知れません。 このような憶測はきりがありませんし、歴史と言うジャンルには入らないのでしょう。
 山幸彦の子が日子波限建鵜葺草不合(ひこなぎさたけうがやふきあへず)の命です。 名前の由来譚は別にしても、この長い名前には
うがや 上伽耶 大伽耶 朝鮮半島の南部の山の中
なぎさたけ 渚の武 名草の猛 五十猛命
 など、さまざまな合成のいおいがします。これも憶測が入りすぎて歴史と言うジャンルから逸脱ですね。

 不合尊の子が、五瀬命、稲氷命、御毛沼命、若御毛沼命(豊御毛沼命、神倭伊波礼毘古の命、後の神武天皇)です。 いよいよ、神武東征の物語です。
 前に、五十猛命の子孫が南九州に点々としていると云う伝承を紹介しました。宇佐八幡創建に活躍した辛島氏に伝わる「辛島氏系図」の紹介で、1月4日付け−16−です。 その中に身於津彦と云う名がありました。日向市美々津町を指しているように思います。ここに神武天皇の出発地の伝承が残っています。立磐神社と云う神社に腰掛け石などが残っているようです。 この美々津町は古来から海上交通の拠点で大陸や瀬戸内との交易が盛んだったそうです。

 神武東征軍は水先案内の棹根津日子と出会います。珍彦とか椎根津彦とも書かれます。和歌山市宇須の宇須井原神社はこの神を祀っています。 紀伊続風土記には「景行紀に紀直祖菟道彦といふ。国造舊記に宇遅比古。古事記に宇豆比古。」と出ています。五十猛命の子孫とする宇豆彦とよく似ていることは先に書きました。 「辛島氏系図」は五十猛命の子孫の名を辛島氏が神武東征の物語に合わせて作ったのかも知れません。
 棹根津日子の子孫に倭太氏、和田氏、和太氏があります。吉野・熊野にこの地名は多く分布しています。(後述)



名草の神々−34−

  神武東征軍の水先案内の珍彦(うづひこ)または宇豆比古ですが、この「ウヅ」の名を持つ女神がいます。 例の天照大神が隠れた天岩戸の前の広場でホトを出して踊った天宇受売で(あまのうづめ)です。更にこの女神はニニギノ尊の天孫降臨の時に、猿田彦神が立ちはだかって、天孫族一行がびびっていた所に登場して、日本書紀では胸乳を出し、ホトを露わにして猿田彦神の素性を聞き出します。 要するに、閉塞状況に登場して突破する神です。なりふりかまわず、状況を打破していく女丈夫的な女神でしょうか。俳優(わざおぎ)神とされています。 和歌山市片岡町の刺田比古神社の摂社の宇須売神社や田辺市神子浜の神楽神社に祭られています。
 水先案内の宇豆比古の場合、やはり海流の流れの強い海峡に現れて神武東征(天孫降臨の水平版?)の軍を導き、海峡を突破して行きます。 また大和の宇陀の方で立ち往生の神武軍をやはり平野へ導く役割を果たします。
 「ウヅ」には突破する打破すると言うような意味がありそうです。それも平和裡に行っているように見えます。 従って、「撃つ」の変化ではないように思います。「渦」とすれば螺旋状で、土器や銅鐸などの模様に使われています。 なにか、呪術的な意味があるのでしょう。
 ホトの露出や珍彦からの連想ではないのですが、別に棹根津彦(さをねつひこ)と言う名前をもらった所を見ますと、男根を出して安全を祈願するような呪術が往古にあったのかも知れません。
 何か南方熊楠がフンドシもしめず、着物の前をはだけて熊野の山中をほっつき歩いたのも、身の安全を祈願しつつ探索していたのかも知れませんね。出会った人間はびっくりしたそうですが、山の女神はご機嫌だったかも。

 大阪湾を南下して、紀の国の男の水門に到り、五瀬命はなくなります。「陵は竃山にあり。」と記されています。
 紀の国の男の水門の比定地ですが、和歌山市小野町に水門・吹上神社が鎮座しており、ここに神武天皇聖蹟男水門顕彰碑が建っております。 また、大阪府泉南市男里に鎮座している男神社の由緒書きにも「聖蹟雄水門は即ち此地である。」とされています。 かっては、この辺りまでは紀の国だったのです。

 また五瀬命を葬った竃山の地については、現在の竃山神社の他に海南市内にも候補地があったようで、大いに論争がありました。 日本書紀では竃山に葬って後に名草邑に到り、「則ち名草戸畔といふ者を誅す。」と出ています。 和歌山市関戸の矢宮神社の鎮座地は、神武天皇軍の上陸後陣地を構えた所との伝承のある地です。


名草の神々−35−

 名草戸畔の戸畔は戸女、刀自、一家のあるじ的な婦人を指す言葉といいます。この地の女酋長、巫女、即ち、邪馬台国の卑弥呼のような存在だったのでしょう。 魏志倭人伝の卑弥呼のいる地は、南方の地のように記載されていますが、名草の地も、女酋長が支配している地として記載されている所から考えると、南方系の習俗だったのでしょう。 黒潮にのって紀伊半島にたどり着いたインドシナ系の人々が多かったのかも知れません。 そう言えばチョット色黒の人が多いのかも。m(_ _)m

 秦の徐福が記したと伝わる『富士古文書』と云うものがあります。来歴からはあまり信をおけないイメージですが、それは記紀の神代紀でも事情は同じ様なものかもしれませんが、 この中に名草戸畔と五瀬命の話がでてきます。
 此処では五瀬命は皇太子と表記されており、長髄彦軍に矢傷をおわされます。矢疵を洗った後、五瀬命は名草戸長之家に入られました。ここで矢傷の手当をし、概ね直ったとのことです。 ある夜、戸長はおおいに酒を勧めました。皇太子と供の者は酔って、眠り込みました。
 あにはからんや、戸長は長髄彦の教唆に呼応していて、今宵は合図をして、賊徒に家を囲ませ、急襲させました。皇太子は、闇夜での戦いの中、名草戸長を切るも、負傷をし、更に矢傷も悪化し、治療を尽しましたが、 遂に崩御し、紀原之窯山に葬られました。
 と、こういうことです。「名草戸畔を誅す。」の理由を長髄彦の仲間としているのは面白い説明です。

 上に「紀原」と言う言葉がありますが、紀三井寺のある名草山周辺はその昔は「阿備の七原」と呼ばれていた赤土の土壌です。 七原とは、北に広原・吉原、東に安原・松原・境原、南に内原、柏原は不明です。

 京都の八坂神社の宮司をされている真弓常忠さんの名著『古代の鉄と神々』によりますと、 「名草とは菜草で葦のことで、赤土には鉄分が多く含まれるので、葦の根元に出来る水酸化鉄(スズと言う)を採取していたのではないか。」と推定されています。
 今でも安原の辺りは葦が多く生えていますが、根元にスズのような物があるようには見えませんが、確かに赤土の土壌は山東の辺りまでは続いています。 鉄の産地だとすると、狙われやすい土地と言えます。
 また赤土土壌は米はうまいそうですが筍はいささか堅いと言います。

 紀氏の系図に祖先の名に、天道根命の子孫として名草戸畔が出てきます。 紀の国の民人には名草戸畔の血をひくと言うことが、紀氏の支配の正当性を認めさせたことになるのでしょう。

 和歌山市と海南市に名草姫を祀った神社が点在しています。 和歌山市吉原の中言神社は現在は小さい神社ですが、江戸時代には相当な大きさだったようです。 海南市黒江の中言神社はここから勧請したようです。
 和歌山市内原の内原神社の祭神の名草彦命、名草姫命については、「天道根命の五代の孫で紀の国造であった。」と記されています。 これだけを見ますと、名草戸畔とは思われません。たしかに、紀氏の系図に名草彦命が存在しますが、 だからと言って、それが神社の祭神になるには、それなりの事が必要ではないでしょうか。
 五代の孫で紀の国造であるだけでは、2,000年近く祀られる理由にはなりません。やはり、押し掛けてきた神武軍(紀の国から見れば侵略軍)に賊として殺されたと語り継がれた名草戸畔こそが、 祀られるにふさわしいと思います。

なお、兵庫県養父郡八鹿町に紀氏が赴任時に勧請したとする名草神社が鎮座しています。大変美しい神社だそうです。


名草の神々−36−

  名草戸畔の埋葬の伝承が南方の穀物神話とつながっているように見えます。 名草の神々−6−で触れましたように、海南市には宇賀部神社(おこべさん)、杉尾神社(おはらさん)、千種神社(あしがみさん)が鎮座しています。 邑人は捨て置かれた名草戸畔の頭、胴、足をそれぞれ葬り、祀ったとの伝承があるようです。
 モルッカ諸島に伝わるハイヌヴェレと言う女子の物語とこの名草戸畔の話が似ています。
 ハイヌヴェレは用便をすると、いろいろ貴重な品を排泄しました。 ある広場での舞踏会の夜、舞踏する男達に殺されて埋められてしまいました。 ハイヌヴェレの死体が探し当てられて、掘り出され、死体を細かく切断して、 舞踏広場の各所に埋められました。埋められたハイヌヴェレの死体からは、当時未だ地上に存在していなかったいろいろなもの、とりわけ芋に変わりました。 以後、人間はこの芋を食べて生きるようになった。と言う物語です。

 日本の縄文土偶の埋葬の仕方にも特徴があります。 土偶は何故壊され、なぜ離れて埋められねばならなかったのか、当にハイヌヴェレ神話を再現した豊穣祈願の呪術的な祭がなされたと言うことでしょう。 足を切られた土偶が多いそうです。足を切る、木の足を伐るすなわち柱とする。この「伐る」を伊太祁曽の語源と見る方がおられます。 い(=神)撲った斬る、叩っ伐る(タキ)、曽(神座)と言うことです。
 柱は、伊勢の心の御柱、諏訪の御柱祀りにあるように、神の依りつくもの、または神として、古代から尊ばれたものです。

 話を戻して、このように名草戸畔の伝承には縄文の息吹、南方の息吹を感じる由縁です。 巫女である名草戸畔が齋祀り御託宣を聞いた神とは、名草屈指の巨木である聖樹−紀の国の国魂−後に人格神として大屋毘古神の名が奉られた神であったとは考えられないでしょうか。 紀の国の大神と称えられた由縁です。

 3世紀後半、瀬戸内には高地性集落が作られます。展望のきく小高い丘の上に造られた見張り所です。魏志倭人伝にある「倭国大いに乱れ」の産物でしょう。 維持された期間は20〜30年程度だったと言われます。 和歌山では紀の川北岸の橘谷、天王塚、滝ケ峰などにあったそうです。また有田市、御坊市、田辺市などに点在しています。

 神武東征を史実と言う学者は殆どいないようですが、国を統一する力が西からやってきたことの反映だろうとは大方の認める所となっています。 しかしながら、余談ですが、明治維新までの日本を統一する勢力は殆どが東から来ています。
 神話も含めて概要を書いてみます。「 」はその勢力の基盤の山城・大和から見た方角です。
【神話の世界】
「東」出雲の大国主の国譲り 常陸國の鹿島神宮と下總國の香取神宮の神々が主役
「西」神武東征
「西」神功皇后、応神天皇の東征
【史実の世界】
「東」継体天皇の皇位就任
「東」天武天皇の壬申の乱
「?」藤原氏・平氏
「東」鎌倉幕府
「東」足利幕府
「東」豊織政権
「東」徳川幕府
「西」薩長土肥の明治維新
 歴史的に確認できる継体天皇は越前近江、天武天皇は美濃の勢力にのって、武家の平氏、鎌倉、足利、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康と全部東からです。 西の方は大陸や半島から先進文化が入って人間が軟弱になっていく、これを東国の質実剛健な連中が征していくとの構図があったのかも知れません。 邪馬台国に対する狗奴国が美濃方面にあったとの最近の説があります。狗奴国が制覇して大和王権を起こしたのならこれも東の勢力になります。 また九州に邪馬台国があって、これを大和の勢力が滅ぼして統一したとすれば、東からになります。 神武東征も後述しますが、太陽に向かって攻めるのは具合が悪いとして熊野へ迂回し、宇陀方面から大和平野とのストーリイを採っています。東志向です。
 雄略天皇の頃でしょうか、大和の勢力の九州制圧がどっかであったのでしょう。


名草の神々−37−

 神武東征に見る海人族
 神武東征の物語のような軍隊の移動には船団を組んでいたようで、海人族の協力が不可欠です。 神武軍も湊から湊へ瀬戸内を東へ向かいます。日前国懸神宮の『両神宮本紀略』に、「二つの神鏡は神武東征の際に、天道根命に託され、 紀伊国加太浦に到った。」とありますが、紀氏も海人であったこと、同じように西からやって来たことを示しているようです。
 五瀬命の竃山神社の所在地を和田と言います。神武軍は紀の国へ迂回しますが、これは海人族の地盤が紀の国にあったと云うことです。 朝鮮語で海のことを「パタ、わた」と云ったそうで、海人族の神社の和多都美神社や海神神社と書いて「わたつみ神社」と読ませる神社もあります。
 紀の国の「和田」と言う海人族の痕跡を示す地名をあげてみます。
和歌山市加太 和田の変化と思われる
和歌山市和田 和田川
広川町和田  
御坊市和田
大塔村 和田 富田川上流は和田川
本宮町 尾和田
那智勝浦町下和田
三重県紀宝町 和田
熊野川町 和田向 熊野川支流に和田川
本宮町 東和田
奈良県・三重県の北山川沿い(169号線沿い)にも点々と和田が分布しています。奈良盆地には入りますとおびただしい和田があります。

 史実とはされていない神武東征譚ですが、記紀から想定される経路にこれだけの和田が分布していることは何かを物語っているのでしょう。 吉野の宮滝遺跡からは熊野灘の石が出土しているそうです。吉野と熊野は古来からの海人の利用するルートがあり、これが神武東征のルートに取り込まれたと考えるのが常識的なのでしょう。
 また和田と海人がこのように結びつく所から、海人族は朝鮮半島で力を蓄えた時代があったと言えるでしょう。

 紀の国では海神社と言う式内社が二座ありますが、ルビは牟婁郡「あま神社」、那賀郡「うなかみ社」となっています。海をワタとした時期は早々に終わったのでしょう。

 神武軍の足跡は記紀ともに紀ノ川畔から熊野へ飛んでしまいます。 しかし途中に幾つかの伝承があります。

 田辺市稲成町の稲荷神社の由緒の概要を紹介します。
 その前に余談をひとつ。弘法大師空海が田辺で稲荷神にであったとの伝説があります。 また「紀州の老人、稲を背負い、杉の葉を提て、両女を率い、二子を具して東寺の南門に望みたまう。」 との話は伏見稲荷の創建の由緒譚に出てきます。稲荷と紀の国も伏見稲荷の元社と言う糸我稲荷神社の存在も含めて面白いですね。

 田辺稲荷の由緒「この地域の里人は日当たりのよい丘で穴居生活をし、弓矢で鳥獣を捕え食していました。 天道根命が神武天皇の軍に従い各地の土豪を征するに当たり、里人ども、その軍に馳せ参じて、平素心得のある弓矢を以って大功をたてました。 初午神事に御弓の神事があるのはこの故です。
 天ノ道根命は、この地の祖先にの里を与え、開拓の事を教え、葦原を開墾し、保食神より五穀の種子を頂き栽培、又食事の方法を教えられました。
 やがて神武天皇は大和を平定し橿原の地に御即位されるや、里人達これを記念して榊を立て祭壇を設け、神々を祀ったと伝えられる。」とあります。

 また、周参見の稲積島には今は弁天様が祭られていますが、神武東征のおり、食糧の稲をこの島に積み上げたとの伝説が残っているそうです。

 余談ですが、稲積山と言う名の山があります。
 『出雲国風土記』には、稲積島(美保関町)、伊奈頭美神社(いなずみ)が鎮座、通称 奈具良明神(なぐら)が鎮座しています。 稲倉の意でしょうか。
 稲積山(出雲市)もあります、この山は大穴持神の稲積なり、とされています。
 『播磨国風土記』には大国主命と少彦名命が稲の種子を積ました稲種山(姫路市林田町)があります。
 稲積で気に掛かるのが宇佐神宮祭祀の辛島氏が最初に拠点とした稲積山です。近くには宇佐市大字中の稲積六神社の鎮座しています。この稲積山を「宇佐郡辛国宇豆高島」と称したらしく、ここに辛国神が降臨したとして、この神を祀ったという伝承があります。 また国東半島の上の姫島の西にも稲積の地名があります。辛島氏は素盞嗚尊や五十猛命の末裔で、かつ紀氏と同根かもしれません。紀の国を考えるのに、辛嶋氏や宇佐神宮は要注意です。
 鹿児島の国分市付近に稲積城があったようです。鹿児島では姶良郡溝辺町竹子の稲荷神社の祭神は保食神と稻積大明神となっています。 これは宇佐神宮のある豊の国の辛嶋氏の末裔が五十猛神と八幡神の旗印を先頭に熊襲征伐に行ったのち移住した土地に付けた名前の可能性があります。

 山の神、海の神を山積、海積というように、稲積を稲の神との説もあるようです。 讃岐国の式内社に、観音寺市の稲積山に高屋神社があり、山頂の元社を稲積神社と言います。

 神武東征の伝承の地は紀の国には他にも沢山あろうかと思います。 皆さんのご存じの伝承地や伝承をご紹介頂ければ幸甚です。
 


名草の神々−38−

 日本書紀では、名草戸畔の次ぎに熊野の神邑(かみのむら)に到り、天磐盾に登る。 次ぎに軍を引き、漸進し、海の中で暴風雨にあい、稲飯命(いなひのみこと:四人兄弟の次兄)が剣を抜いて海に入り鋤持神(さひもちのかみ)となる。 また三毛入野命(みけいりのみこと:三兄)も常世郷へ往った。とあります。

【熊野の神邑】万葉集の歌で

 苦しくも降り来る雨か神[かみ]の崎狭野の渡りに家もあらなくに (巻三 二六五)

 神[みわ]の崎荒磯[ありそ]も見えず波立ちぬいづくゆ行かむ避道[よきぢ]は無しに(巻七 一二二六)

とあります。この神[かみ]の崎は[みわ]と読む解説もあります。
 「神[みわ]の崎」とは新宮市三輪崎のことと考えていいと思います。「狭野の渡り」を思わせる佐野もあります。 また、神武天皇の幼名に狭野尊(さののみこと)があるのも不思議です。 三輪崎には八幡神社、佐野には天御中主神社が鎮座していますが、これらの神社からは東征軍立ち寄りの匂いは漂っていません。

【天磐盾】ごとびき岩の神倉山とされています。

【稲飯命=鋤持神】「サヒ」は「ワニ」の転と言われます。祖母の豊玉姫の姿に戻ったと言うこと。

【稲飯命と三毛入野命】新宮市の王子神社に祭られています。

 三重県熊野市二木島町の室古神社に稲飯命、熊野市甫母(ほぼ)町の阿古師神社に三毛入野命が祀られています。 入水した両皇子を発見、奉葬したとの伝承があります。

 四人兄弟のうち三人まではここまでの段階で亡くなっています。日本武尊に対する弟橘姫のような美談が欲しかったのでしょうか。 それとも骨肉の争いを美化した物語でしょうか。

 いずれにしても、この物語には海上はるかに他界がある、熊野の山々に死霊が寄りくると言う信仰につながる、仏教以前からの熊野の山と海への信仰が語られているように思います。

 また南紀の古い信仰に磐座信仰があります。しかし現在はごとびき岩の神倉神社の祭神は高倉下となっています。 これは、物部系の熊野国造が来たときに祖神として高倉下をここに祀ったと見る方もおられます。
 この高倉下は、神武天皇とその軍が熊野の毒気に当てられて、すなわち熊野の荒ぶる神のいかりに触れてか、衰弱してしまいます。 そこを天上から見ていた天照大神と高木の神の指図で建御雷の神が国譲りの際に使った布都の御魂と言う剣刀を指し下します。 これを高倉下が「朝目吉く:あさめよく」取り持って神武天皇に献上しますと、天皇とその軍とは目覚めます。死と再生の物語とも読めます。 熊野詣でにも、死と再生のような意味があり、記紀の書かれた8世紀初めには、熊野は死と再生の場と見られていたのでしょう。 また、布都の御魂による再生は石上神宮に残る物部氏のたまふりの呪術を思わせます。

 熊野の地元の神々は天孫族に害する荒ぶる神であるが、これを高倉下を祖神とする海部氏が助けること、その刀剣が石上神宮に祀られていることを言っています。
 石上神宮は物部氏の齋祀った神社で、物部氏と海部氏とのつながりをも示し、これらが大和の王権に大いに功があったと言っています。
 建御雷の神は藤原氏の祀った春日大社の祭神です。藤原氏の祀る神々は必要もないのにしゃしゃり出る感じがします。ここでも天皇家と海部氏の間に割り込んでいます。 まさに、記紀の作成目的の一つに藤原氏は神代から天皇家につかえナンバーU的な活躍してきたと氏族であることを、もっともらしく普及させることにあったのでしょう。
 


名草の神々−39−

 熊野の信仰は後世の修験道、天台・真言宗、熊野詣等で原型を留めないまで変貌しているようです。 植島啓司氏は『聖地の想像力』の中で、後に流入したであろう記紀の影響や上記の信仰を取り去ると、原始信仰として磐座信仰が残るのではないかと指摘されています。

 串本町の矢倉神社には、神様が一本の矢となって天から降ってきた。落ちたところが井戸となった、との素朴な話が伝わっています。 井戸も聖なるものですが、「矢」は弥栄の弥とか磐の意と思われます。倉は座で神の降臨する所と考えることができます。 現在は、ヤクラ神社は串本一社しか見えませんが、おそらくは、神倉神社やいくつかある高倉神社はその流れをひいているのでしょう。 人格神の高倉下は後からの神の名かもしれません。物部系の熊野国造が持ち込んだとも伝わります。

 また、古座の木葉神社(ねんねこの宮)は本殿がありません。古い信仰形態の神社です。本殿を造ると火事になるとのことで、現に江戸時代に本殿を造り、火災になっています。古文書を焼失したようです。
 熊野にはこのように古い信仰が残っているのが人を引きつける魅力なのでしょう。

 古事記には出てきませんが日本書紀には、神武軍が熊野の荒坂津(またの名を丹敷浦)に至り、丹敷戸畔を殺すとあります。 この丹敷浦の比定地としては、三重県北牟婁郡錦村、三重県南牟婁郡荒坂村二木島、新宮市三輪崎、串本、那智勝浦などがあります。

 「丹敷戸畔の墓」と記した石碑が、那智駅北側の熊野三所大神社に立っています。 なかなか苔むした古い雰囲気の石碑です。この神社にも、「往古神武天皇丹敷戸畔を誅し給う地なり」と伝わっています。 この丹敷戸畔は、やはり戸畔(とべ)と呼ばれていますので、刀自(とじ)、すなわち家長的な女性と言うことでしょう。
 前に、名草戸畔が出てきましたように、記紀の記された時代から見た昔の紀の国や熊野は女王の支配する文化圏、南方系の文化圏であると強く意識されていたのでしょう。

 この丹敷戸畔の「丹敷」の読みですが、通常は「にしき」として、二色、錦などの地と関連づけられているようです。
 鳥越憲三郎氏の『大いなる邪馬台国』には、「にふ」と読むべきではないか、とされています。 確かに敷は音読みでは「ふ」ですが、それなら丹をどう読むのかとの問題は残りますが、 「にふ」を冠する神、丹生都姫神は紀の国の大神として、高野山の麓の天野を始め、伊都郡、那賀郡、日高郡、西牟婁郡に多くまつられています。 丹生都姫神の化身としての丹敷戸畔、すごく面白い話になります。なお、鳥越憲三郎氏は前述の本の中で、神武東征コースの南紀廻りは不自然、紀の川を遡ったのであろうとされています。 確かに紀の川の奈良県側は吉野川で、神武軍はこの川尻に出るわけですから、地理的にもおかしくはありませんが、神話の世界のこと、聖地熊野を通過させる物語が重要だったように思います。

 丹生都姫神は記紀にはその名前が登場していない神です。その為か、天照大神の妹の稚日女であるとか、豊受姫のことだとか、なんとか記紀の神の名前と結びつけたい願望からか、諸説があります。 丹生都姫神は紀では丹敷戸畔として登場しているでは、余りと言えばあまりなことと気持ちはよくわかります。
 紀の国は水銀分を含んだ土壌が多いようです。また、那智山辺りには銅を採取した跡もあり、相当に古い金属神とされる丹生都姫がまつられているのも、あながち不思議ではありません。 熊野には聖地以外にもこのような実用的メリットが大いにある地域だったといえるでしょう。

 丹敷戸畔を殺す話は天磐盾に登った後で出てきます。また丹敷戸畔を殺した後で熊野の神の毒気に当てられて、熊野高倉下が登場することになります。 順路を考えることに意味があるとすれば、新宮のゴトビキ岩周辺からは余り遠くない所に場所を設定しているようです。
 毒気が取れてからは八咫烏の案内となります。今までの比定地は海岸が多いのですが、毒気のイメージは小生には深い山の中のような感じがします。 陽光キラメク南紀の海岸とは思えません。また海の荒れ方は毒気と表現するような陰湿なものではないのです。 熊野川を遡った辺りで強い硫黄混じりの空気を毒気と表現したのかもしれませんね。
 

  名草の神々−40−

 神武軍はなぜ熊野を回り、ここから吉野へ向かったことになっているのでしょうか、これは軍事的意味よりは宗教的と言うか聖地を通過したことに意味を持たせたのでしょう。 熊野には、私の勝手な想像ですが(お届けしています「名草の神々」は全部そうですが)、熊野をキイポイントとした幾つかの聖地のネットワークがあるように見えます。

 1.山の磐座 ごとびき磐−玉置山−天河村−吉野方面
  まさに神武天皇コースと言えます。

 2.海の磐座 ごとびき磐−花の窟−二見興玉神社−伊勢方面
  高倉下の行動を彷彿させます。

 3.熊野権現垂迹ルート 英彦山(豊前)−石槌山(伊予)−諭鶴羽山(淡路)−切部山(日高)−ごとびき磐

 ここは聖地の交差点、たまり場という感じです。
 また、熊野には、仁徳天皇の頃にインド人かと思われる裸形上人が仏教を伝えたとの伝承があります。 5世紀前半となり、公式の仏教伝達より100年ほど早いようです。仏教は九州などにも公式伝来より早い目に入っていたと言われます。 宗教の性質上、そう言ったものでしょう。

 もう一つ、熊野に蛇神信仰が似合うのかどうかと言う点があります。前述した柿本人麿の万葉歌
 神(みわ)の崎荒磯(ありそ)も見えず波立ちぬいづくゆ行かむ避道(よきぢ)は無しに (巻七 一二二六)

 新宮市街から南西5kmに三輪崎があります。ここで詠んだ詩ではないかと言われています。 何故、地名が三輪なのか、蛇神としてふるまう大和の三輪との関係の有無が気にかかります。

 紀の国の蛇と言えば、道成寺縁起を思い起こします。深層に神の姿は蛇との記憶が発露した物語かもしれません。 熊野の海から寄り来たる怪異とは海神(わたつみ)の起こすものであり、海神とは龍神であり、水神、蛇神とも言えるようです。 三輪崎だけが海と陸の境界ではないのですが、その地形は特に海に突き出ており、またゴトビキ磐が見えることもあり、聖地とみなされたのでしょう。

 柿本人麿の万葉歌をもうひとつ
 み熊野の浦の浜木綿(はまゆふ)百重なす心は思もへど直(ただ)に逢はぬかも (巻四 四九六)

 三輪崎は浜木綿が群生しているとのことです。上記の歌もここで詠まれたのかもしれませんね。
 串本の潮岬先端の潮御崎神社の付近には、御綱柏と伝承されてきた植物が自生しているそうです。 (カシワはブナ科の植物だそうで南紀にはないと聞きますが・・)
 これは、古事記日本書紀に、「仁徳天皇の后盤之媛が紀国に遊でまして熊野の御崎に至り、その処の御綱柏を採りて帰ります。」とある御綱柏のこととされます。神供などに酒を盛る木の葉として重用されたようです。

 南紀名物の、浜木綿と御綱柏、これは丹生大明神告門に出てくる、『美野国乃三津柏又濱木綿奉給』の三津柏又濱木綿のことです。 美野国はさておき、何故、三津柏と濱木綿が奉られたか、それぞれの葉は神饌用だった訳で、丹生都姫に南紀名物のもので奉られたかが興味をひきます。 やはり、南紀で殺された丹敷戸畔は後に丹生都姫として祀られたのではとの妄想を持ってしまいます。 前回にもカキコしたのですが、『おおいなる邪馬台国』の中で鳥越憲三郎さんは「丹敷」を敢えて湯桶(ゆとう)読みをされて、「敷」の字を「フ」と読んで、ニフ戸畔=丹生戸畔とされています。 尚、氏は神武軍のコースを紀の川を遡ったものとされています。戦略上からはそのように見えますが、ここは半分は神話の世界なので、やはり聖地経由とした方が物語りになります。

 熊野沖は黒潮が流れており、様々な物や人が漂着しています。有名なのが徐福伝説です。江戸時代には徐福の墓まで出来ています。 史実としては遣隋使の吉備真備が漂着しています。

 八咫烏とごとびき(蛙)は南方や大陸の神話では太陽と月の象徴です。このような土俗は、太古に漂着した熊野の人々の祖先が持ち込んできたのでしょう。 熊野は凄まじい聖地ですね。
 

名草の神々と歴史 巻一から巻二〇

名草の神々と歴史 巻四一から

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