名草の神々と歴史 巻一から巻二〇

名草の神々と歴史 巻二一から

瀬藤 禎祥

H13.2.1



名草の神々−1−
   式内社は全国で3132座が記載されています。紀伊国は31座と1%分です。 大社は493座中13座で、割合としては多い方です。 とりわけ名草郡(あらく言えば和歌山市海南市一帯)には19座あり大社が9座もあります。これは多い方です。 神話の舞台と言うほどの神話が残されていると言う事でしょうか、何故か、名草郡は神の坐す郡だったとさえ言われておりました。 確かに、大社数では、畿内では王権の本拠地の大和、山城の郡に大社が多く、後は摂津国住吉郡の大社10座が目立ちます。 畿内以外では、伊勢皇大神宮のある伊勢国度會郡、出石神社のある但馬国出石郡とならび、名草郡が多いのです。

 【一体何故大神の坐す郡になったのでしょう】と愚考してみました。

 紀氏の拠点として半島先進文化との接点、とくに鉄の輸入?でのパワー?。
 王権創立に寄与した重要な湊を持ち、海運・海軍の拠点であった事。
 樹木神の伊太祁曽神一座の拠点など重要な神社が鎮座していた事。

 上記の推測はお互いに関連していると思います。キイワードは紀氏みたいですね。

 名草郡の個々の神社を考えて見たいのですが、紀の国の多くの神社は、信長・秀吉軍によって殆どが焼き尽くされ、社地さえ奪われています。 おそらくは、それ以前にも南朝北朝の戦乱、地元内部でのもめごと、不意の火災などで、文書的なものは灰燼に帰しているはずで、創建の由緒や祭神名なども人の口から口への言い伝えしかなかったのでしょう。土人曰わく、古老曰わくです。 そう言う事を踏まえても、敢えて検証してみたいのですが、記紀のような文献があったとしても、神社の祭神については解らない事だらけですね。 解ってしまうようでは、神様とは言えないのかも。
 御批判を覚悟で(御批判歓迎)、お知恵を貸していただけるともっとありがたいと思います。

 名草郡での特徴は樹種播布神話の神々三座〜六座が大社になっています。 すなわち、伊太祁曾神社大屋都比賣神社都麻都比賣神社、紀伊三所神と言われる伊達神社志磨神社静火神社です。 また王権の祖神を祀ったと思われる日前神社、謎めいている国懸神社二座が大社です。それから、紀の忌部氏の祖神を祀ったのか湊の神を祀ったのか鳴神社が大社です。

名草の神々−2−
 急がば回れと言います。古事記・日本書紀(以下、記紀)などに登場する神々や人物・事件で紀の国に関係しそうな所をピックアップしながら、名草郡について考えていきたいと思います。

 今や常識となっていますが、紀の国だけではなく、各地方の国々は何も歴史が始まってすぐに大和王権の一つの地方組織だったわけではありません。
 とりわけ、紀の国は紀の川とその河口に良い湊を持っており、朝鮮半島とのつながりも強く、相当期間大和王権から独立的な存在であったでしょうから、 紀の国の事を記紀に則って調べていくのはあまり良い方法とは言えないのです。

 出雲国には『出雲風土記』のような地方から見た風土記が残っているのですが、残念ながら、紀の国の『紀伊風土記』は散逸してししまっており、 殆ど残っていません。
 従って、文献的にはやはり記紀しか頼りになるものが見当たらないのが現状です。

 『紀伊風土記』が引用された文献が残っており、それを紹介しておきます。
 ●手束弓 タヅカユミとは紀伊の国にある。風土記に見えている。弓のとつか(手束か)を大きくするのである。それは紀伊の国の雄山の関守の持つ弓であるという。(万葉集抄下)
 ●アサモヨヒ アサモヨヒとは、人の食う飯を炊くをいうのである。風土記に見えている。(万葉集抄上)
 何とも興ざめな残り方ですね。古語には疎いのですが、どっからこのような解釈になるんでしょうね。

 幸運な事に、江戸時代末期(今から約200年前)『紀伊続風土記』が編纂されています。時の紀州藩のすばらしい仕事です。
 これができあがって、暫くすると明治維新、時代は大きく変化していきました。タッチの差で出来た『続風土記』がなければ、ますます紀の国の歴史とりわけ神社の由緒なども解りにくかったと思います。 尤も、この書物も記紀をベースにし、記紀の相当部分を史実として認識した上で記述されてますので、気をつけて読まねばなりません。

名草の神々−3−
 ご承知の事でしょうが、古事記によりますと於能碁呂島に降り立ったイザナギ命、イザナミ命が国生みを行います。 この「オノゴロシマをはどこに比定するか」と言う事が真面目に論議されています。この神話や王権の発祥の地にかかわるからでしょう。
 比定地は、淡路島そのもの、沼島、友が島(の神島)があります。これらはいずれにしても、紀の国に近い所です。
 もう一つの比定地は九州です。邪馬台国九州説、九州王朝説、九州の神話が大和に盗まれた云々と、九州説も賑やかです。 私は邪馬台国を2,000円以内で往復できる所にしたいので、九州説はあまり勉強していません。この説はこと細かくはよう紹介しません。どなたかお詳しい人がおられましたら、お願いしたいですね。
 博多湾に能古島と言う島があります。確かにオノゴロシマの名前の一部が遺っているようですね。この島を比定している方もおられます。

 イギリスが植民地を支配する際、拠点を近くの島に置きました。安全を確保しつつ観察進出の拠点としたのでしょう。 印度のセイロン島、マレーシアのペナン島、大陸の香港島などです。 それから類推しますと、日本列島にやってきた進んだ文明を持った人々が拠点を置いた島がオノゴロシマだったと言えるのかも知れません。

 女神が島々を生む神話はハワイにあります。ワケア神はパパ女神と夫婦になり、ハワイ島やマウイ島を生んだとなっています。この神話は火山と関係するのかもしれませんね。

 古事記ではオノゴロシマから順に淡路島、四国(伊予、讃岐、粟、土佐)、九州(筑紫、豊、肥、熊曾)、壱岐、対馬、佐渡、本州と国生みが進んでいます。
 日本書紀では、淡路島は最初ですが次に、本州、四国、九州、隠岐、佐渡、越州、大州、吉備子州の順位なっています。

 オノゴロ島は塩をコオロコオロとかき混ぜると、矛からしたたり落ちた塩がつもって島になると書かれています。この矛が問題で、銅矛は九州方面が多く出土し、卑弥呼の事が記されている魏志倭人伝にも倭人の武器のトップに挙げられています。

 さて、皆さんがオノゴロシマを比定されるとしたら、どの辺りにされますか?九州でしょうか、淡路でしょうか、それとも・・


名草の神々−4−
   国生み神話では、オノゴロシマに続いて出来た島は淡路島となっています。古事記では続いて四国、隠岐島、九州、壱岐、対馬となっています。日本書紀の本文では、淡路島、本州、四国、九州の順となっています。

 ひまわり亭さんはホームページで、オノゴロ島の場所の候補として隠岐の後島をあげておられます。 文化伝達の要路に当たります。一つの見識だと思いますが、ここでは、オノゴロシマの次は淡路島となっている事から素直に考えて淡路島の近くだったとしておきます。

 矛が潮を固める話は播磨の海にも出てきます。『播磨国風土記』が伝える葦原志挙乎命(伊和大神)と天日槍(天日矛)とのやりとりの中で、天日槍は上陸を拒否され、潮を固めてとどまったとあります。やはり淡路島の近くです。

 日本書紀の国生みの範囲は雄略天皇の支配した地域だそうです。そうして九州の熊曾と言う表現がありますが、これは古い言葉で、記紀が書かれた頃は隼人と呼んでいたそうです。伝承としては古いのでしょう。この神話は淡路の海人が大和へ持ち込んだのではと言われています。

 古事記では、国生みが終わると、イザナギ命、イザナミ命は、家屋の神とおぼしき神々(角川古事記の注)を生みます。土地を確保して住宅を建てると言う順です。理屈にかなった話です。 家屋の神は六柱です。最後の神の名は大屋毘古の神です。この大屋毘古の神は、和歌山市山東の伊太祁曽神社(延喜式名神大社)の祭神の五十猛命の別名とされています。 いよいよ、紀の国の神の登場です。古事記のここでは大屋毘古の神の生成を語っているだけで、何をした云々は書かれていません。

 大屋毘古の神の「大」は敬称で、これを取ると「やひこ神」となります。弥彦神は新潟県の弥彦村の式内大社の伊夜比古神社(現在は彌彦神社)の祭神です。この「伊」も敬称でしょう。 この神社には、弥彦神は一つ目だったとする伝承があります。たたら製鉄に関係する神かもしれません。
 余談ですが、彌彦神社の一角に「アラハバキ門」があったそうで、山東の伊太祁曽神社の近くの木枕にあった履き物が奉納されている足守神社との関係なんかも面白いと思って参詣したのですが、どうもこの神社は12世紀に根来寺を開いた覺鑁上火が山城の愛宕山から勧請したとなっていました。 足守神社についての地元の説では、古事記の冒頭の別天つ神の宇摩志阿斯訶備比古遅と見る方もおられます。周辺は長く湿地帯であった事が傍証です。

 尤も、「や」もエデン語(古代世界共通語、ほんまかいな?)では神の意だそうで、伊太祁曽神社・彌彦神社の両社とも「偉大な神様」を祀っているのだと言っているだけかも知れませんが。・・それをいっちゃお終いよの世界ですね。

 伊太祁曽神社の話に入りますと、えんえんと続きそうです。これは後のお楽しみとしまして、とりあえず次に進みたいとおもいます。

名草の神々−5−
 イザナギ命、イザナミ命は、次に海に関する神、水門、風、木、山川草木、霧、穀物、火などの神を生みます。 ここまでの神々は漁労、採取、焼き畑などを連想する神々だと思われます。 記紀が編纂された7世紀頃の人々の頭の中には、縄文的な生活の記憶が残っていた事や、まつろわぬ国や、離れ小島、山奥での生活を原始的なものと見ていたと言う事でしょう。
 火の神を生んでイザナミ命はなくなります。イザナミ命は古事記では広島県比婆郡とされる比婆の山に葬られます。 日本書紀(一書)では紀の国熊野の有馬の村に葬られたとします。ここは現在熊野市の花窟神社となっている所です。
 「この神の魂を祭るには、花の時には花を以て祭る。又鼓吹幡旗を用て、歌ひ舞ひて祭る。」とあります。式内社にはなっていない所を見ると、神社と言う形になっていなかったのかも知れません。 しかしながらここの祭は、現在にまでお綱かけ神事として伝えられ、実際に行われているのと言う事が凄いことだと思います。伝承が神社の祭祀の形を持つと1000年2000年と伝えられていくと言う事が実感できますね。 これには地域の方々の保存へのご努力があるわけで、これに頭が下がりますね。日本人の原点とも言える神社と祭りは、是が非でも次の世代に伝えていかねばなりませんね。

 ここは海岸の洞穴への埋葬の場であったと言われています。島根県や房総半島、紀伊半島の海岸には点在しているようです。 船形の木棺に埋葬された状態のものも出土しています。田辺市の磯間磐陰遺跡からは男の子が埋葬されており、胸の上には渡り鳥が抱かれていました。 他界へ無事に導かれ、再び蘇ってほしいとの親の願いが見て取れます。最近の多くの親に拝ましたい遺跡ですね。 海洞は黄泉の国へつながっていたのです。同時に子宮でもあり、生命の誕生、復活の洞穴でもありました。

 花窟神社の磐座と神倉神社の磐座を、海から眺めると男根、女陰のセットに見えるそうです。見たことはありませんが、どなたか写真でもお持ちじゃないでしょうか?

名草の神々−6−

 イザナギノ命を祀る古社としては、淡路島津名郡の伊弉諾神宮や滋賀県の多賀大社が知られています。

 余談ですが、淡路島と琵琶湖の形、180度回転させたら重なる位よく似ていると思いませんか。琵琶湖は淡海といいます。この二つの「淡」を重ね合わせる回転軸が摂津(吹田)に当たり、ここに何と、式内の伊射奈岐神社二座が鎮座しています。どうも偶然とは思えない立地と、どうも今のところ私一人が孤立無援で言っています。 (近くに阪急淡路駅!) 

 イザナギノ命、イザナミノ命が海の神に次いで生んだ水門の神は秋津彦命、速秋津姫命と言います。和歌山市鳴神の鳴神社には「速秋津彦命、速秋津姫命」が祀られています。
 この神々は、水門を守る神々です。また、鳴神社には、江戸時代に、神官と氏子との間でもめごとがあり、氏子は天太玉命を日前宮に遷し、それ以来水門の神を祀る事になったとか伝えが残っています。 氏子に離れられた鳴神社は衰えていきました。

 鳴神社の「なる」は朝鮮語で「水」を意味するとか。紀の川の水をひいてきた宮井川の水門が鳴神社の近くにあります。この水が名草平野を豊かな穀倉地帯にしたのでしょう。

 宮井川が作られたのは土木技術がある程度向上した古墳時代だろうと思われます。初期の頃の取水口は田井ノ瀬の辺りで、徐々に水位と陸地の高低の関係で、東へ東へと移っていったのでしょう。 和佐に井ノ口という地名が残っています。

 最初に宮井川をひいたのは、その時代の名草の支配者でしょうね。一体誰でしょうか?

 候補1 鳴神社を祀った忌部氏の祖先。
 鳴神社の鎮座地は忌部郷と呼ばれていました。この神社の祭神は忌部氏の遠祖の天太玉命であったとも、また紀州忌部氏の祖の彦狭知命とも言われています。 現在は天太玉命を祭神としていますが、これは3年ほど前の宮司さんが取り入れたようで、それまでは、水門の神だけでした。 今の岡崎に当たる忌部村にも天太玉命を祭る忌部里神社がありました。
 忌部氏は中臣氏台頭以前は朝廷の祭祀を司って来た氏族です。従って橿原宮造営に力を発揮したと伝わるように宮大工的な技術者集団でもあったようです。

 候補2 日前國懸神宮を祀った紀直氏の祖先。この紀氏がまた謎が多い氏族です。ルーツについても諸説あるようです。 先ず、地元で力を付けてきてのし上がった豪族なのか、そこそこの集団として紀の国へやってきたのか、に分かれます。
 更に、やってきたとすれば、いつ頃か、どこからか、ど経緯でやってきたのか、と言う事です。 朝鮮半島からの渡来人か、それは高句麗か百済か新羅か、また渡来系が九州(広うござんす)で力をつけて名草へ来たんでしょうか、 神話にあるが如く、磐余彦軍とともにやってきて、この地におさまったのか、崇神天皇の頃か、神功皇后の頃か、 どうも決定的な説はないようですね。
 宮井川を誰が作ったにしろ、最終的に紀直氏が司る事になるようですが・・。

 候補3 伊太祁曽神社を祀っていた人々。その代表的な巫女が名草戸畔?。彼女の名前はお聞きになった事がおありだと思います。 磐余彦(後の神武天皇)が「名草邑に至る。則ち名草戸畔といふ者を誅す。」と出ている名草の女王です。
戸畔「ここはあがとこやいしょ、どっかへいっておしまい」(紀州弁のつもり)
磐余「¢£%#&*でごわす、おいどんがいただきもうす」(南九州弁のつもり、前半聴き取れず)と殺されてしまったのです。

 名草戸畔の話でついでに。海南市に宇賀部神社(おこべさん)、杉尾神社(おはらさん)、千種神社(あしがみさん)が鎮座しています。 『謎の巨大氏族・紀氏』(内倉武久さん)三一書房によりますと、邑人は捨て置かれた名草戸畔の頭、胴、足をそれぞれ葬り、祀ったとの伝承があるようです。 杉尾神社の由緒書きにでは「伝承によると、和歌の浦のどの浦か定かではないが、大きな龍が流れつき、どのような場所に葬るか占ったところ、「その浦より巽の方角にまつれ」と言われ、腹部を当神社におまつりになったという。 このころから、おはらさんとして崇拝され始めたのであろう。」とあります。

 さて、宮井川をひいた氏族、すなわち、古墳時代初期の名草の支配者は誰だったのでしょうか?

名草の神々−7−
 名草郡を神々の里と言いましても、共に名神大社である日前国懸神宮と鳴神社とは余りにも近すぎるのです。
 忌部氏が紀の国に登場するのは、実際の所は、紀氏が大きい勢力を紀の川河口に展開した後の事です。 大和王権が紀氏を牽制すべく、日前國懸神宮の祭祀を司る神人神奴を忌部氏の配下に組み替えたのが発端ではないかとされています。 (和歌山県史)。また蘇我氏が大和で権力を握っていた頃、紀氏は蘇我氏から相当な圧力を受けているとの事で、その先兵として忌部氏が送り込まれたと言う話があります。

 これらから考えますと、紀氏が力を付けたから忌部氏が現れたとなります。6世紀でしょう。 紀氏の勢力拡大にはやはり宮井川用水による灌漑の成功、名草平野の稲作の収穫量がその一助を担っていたでしょうから、忌部氏登場以前に既に宮井川は存在していたと言えます。宮井川の近くだから鳴神社と名をつけたのかも知れません。

 それにしても、鳴神社が式内大社として国家的奉幣を受ける存在となっているのは不思議な気がします。
 中臣氏が登場して以降衰えたとはいえ忌部氏は名門氏族でした。その忌部氏の朝廷での影響力などが陰に陽に働いているのではと考えられます。 もう一つは、後で天石戸隠れ事件でも触れる事になるでしょうが、忌部氏の祖神の天太玉命は日前神国懸神が天照大神とすれば、この神を祭る役割があったはずなのです。 祭るものがいなくなった神は朽ち果てるしかありません。神はおのれを祭る者を護らざるを得ないと言う事もあったのでしょう。すなわち日前國懸神宮の祭祀を司る神人神奴が忌部氏の配下に組み込まれたと言う見方が正鵠を得ているように思われます。
 その結果として、忌部氏の聖地としての神社は残ったようです。 しかも鳴神社は日前國懸神宮と紀氏の墳墓群との間に割り込んだ場所です。

 紀氏は喉元に刃を突きつけられた形になります。
 忌部氏の楔を名草郡に打ち込んだ際には、大和への木材搬出の権利は忌部氏、宮井川の水の配分を司るのはやはり紀氏、しかし宮井川の取水口のある地域の統治は忌部氏のコントロール下において、紀氏を牽制するといった妥協が成り立ったのかもしれません。 宮井用水の取水口のある三毛には忌部氏の祖神彦狭知命を祭神とする上小倉神社が鎮座しています。 また桃山町には、安土桃山時代建築の文化財である三船神社も鎮座し、紀伊忌部氏の祖神を祭る名社です。
 紀州飛鳥と言われる貴志川町の遺跡の多くは忌部氏の残したものかもしれません。

名草の神々−8−
 日前宮には農耕や水にかかわる祭りが多いとの事です。伝教大師(最澄)は日前國懸神宮を名草上下溝口神と呼んだと伝わっています。 これを受けて、上宮を日前宮、下宮を國懸宮とする見方があります。日前國懸神宮は平地に同じように鎮座しており、 山頂と里のような地理的な上下関係は見られません。かっての豊の国に上毛、下毛と言う所がありました。毛は紀の九州弁と考えると、紀氏が二つのグループをなして住んでいたそれぞれの神様かもしれません。 これは単なる思いつきで、<(_ _)>追々調べようと思っています。 
 もうひとつは、ヒノクマに祀られている國懸神(一座?二座?)をして日前國懸神と称したとの説があります。日前坐國懸神ですね。 天武天皇が病に倒れた時、紀伊国の国懸神、飛鳥の四社住吉大神に奉幣したとの記事があります。日前神は坐なかった?。 とにかくその由緒、祭神、全てに謎を秘めた日前國懸神宮です。実際には、謎を秘めたとは全ての古い神社に言える事かも知れません。
 またまた簡単に判るようじゃ、神様とは言えないのだ、と言う声が聞こえてきそうです。

 日前宮のヒノクマと言う地名は明日香村にもあります。檜前、檜隈と書くようです。
 このヒノクマの意味を日前宮の漢字表記から日神(伊勢)の先にできた鏡を祭る云々との解釈もありますが、日前もかっては檜隈と書かれていました。
 「ヒ」は樋の意味で、水を誘導するものと思います。
 「クマ」は角「コーナー」や崎「サキ」の意で「前」と言う漢字が当てはめられるのも自然です。 小さい場所でしょう。まさに名草用水の宮井川の先端を指しています。水分けの場所でしょう。

 宮井川は日前國懸神宮と密接にかかわっていると言うべきでしょう。問題は、誰が、日前國懸神宮を祀っていたかです。この一族が宮井川を作ったのでしょう。 とすれば、先ずいつ頃できあがったのか、と言うことから考えねばなりません。古墳の土木技術の応用として、古墳時代(4−6世紀)であろうとは先に言いました。
 発掘調査では明確に建造の時期がわかっていないようです。文献的にも平安時代にはあるようで、奈良時代以前と言う程度しか判っていないようです。 (小生の勉強不足で他にあるかも知れません。これはこのシリーズ全体に言える事ですが。)
 薗田香融さんと言う方が、弥生時代には簡単な灌漑で農耕を行っていた。古墳ができるベースには飛躍的な農業生産力の上昇があって、相当な灌漑が行われていたと言っておられます。 やはり古墳と宮井川は連動しています。紀の川河口付近には4世紀の前期古墳は少なく、5世紀に入って古墳数は、大和も真っ青な程爆発的に増加するのです。 西暦400年頃、一体何が起こったのでしょう。記紀では神功皇后、応神天皇、武内宿禰の物語がこの頃です。 河内王朝の誕生、紀氏の武人の朝鮮半島への侵攻などが始まるころです。
 イザナギ・イザナミノ命の話からだいぶ先に飛びましたが、宮井川は紀氏が作ったと見るのが妥当でしょう。

名草の神々−9−

 紀氏の系図に名草戸畔の名があり、それも祖神とされ、高天原から天孫降臨にお供をしてきたと伝わる天道根命より先代に記されていると言います。 (名草杜夫氏講演録)。
 名草の女王・名草戸畔が紀氏とどのような関係があったのか、なかったのか、この系図を鵜呑みには出来ませんが、 紀氏はもともと「和歌山の人ちゃうやろ」でしょう。その紀氏がこの地の豪族として統治して行くためには、名草戸畔の子孫であると称するのは、方便だったと思われます。
 この名草戸畔がのグループが宮井川を作っていたとすれば、相当な力を持っていただろうし、そのままこの地の豪族として紀氏に発展したことになります。 そうすると、紀清人が編纂に参加している日本書紀にわざわざ、「(紀氏の祖先の)名草戸畔を誅す。」とは記されなかったでしょう。紀氏と名草戸畔とは無関係と言えます。

 紀氏とはどのような氏族だったのでしょうか?
 紀氏のルーツはどこだったのでしょうか?
 紀氏が祀っていたのはどのような神様だったのでしょうか?日前國懸の神々とは?

 イザナギ・イザナミノ命に話を戻します。水門の神から鳴神社の話にいっておりました。
 この鳴神社は式内の名神大社です。この辺りの地名に祭神の名に似た「秋月」があります。 本州の事を大倭豊秋津島といいます。「アキツノトナメ」で「トンボの交配」との解釈もありますが、「秋月」の名もこの当たりから来たのかも知れません。
 なお、アキツは大和の地名とされ、第六代の孝安天皇の宮室を秋津嶋宮と称し、奈良県御所市室に当たります。神武天皇の国見の丘から南西3kmの所です。

 火の神を軻遇突智命と言います。鳴神社の摂社逆松社に香都知神社「軻遇突智命」が祀られています。 香都知神社も式内小社です。もともとは独立した相当な神社だったのでしょう。一般的に秋葉神社とか愛宕神社の名を持つ神社はこの神を祭神としています。

 さて、ここでは香都知神社が軻遇突智命を祀るとされます。
 面白いのは、香都知神の四世の孫に天道根命の名が見えます。先に触れましたようにこの神は言わずと知れた紀氏の祖神です。 香都知神社は紀氏の遠祖を祀っていた神社だったのかも知れません。 しかしそれならば、衰退させてしまい、なおかつ鳴神社の摂社になってしまっている事は不思議な気がします。
 また別に、香都知神の六世の孫に刺田比古神の名があります。刺田比古神社は市内の片岡町に鎮座する式内社で大伴氏の祖神を祀るとされています。 香都知神は大伴氏の遠祖にも当たります。衰退するなら刺田比古神社へ合わせても不思議ではありません。
 系図がおかしいのか、紀氏や大伴氏が遠祖と認識していなかったのか、これは想像ですが、武門でならした紀氏や大伴氏はその神の剣の威力や刀鍛冶の機能を遠祖に取り込んだのかも知れません。
 先の名草戸畔の場合とは少し違いますが、系図の使い方として、家の伝承の技術を大切にするように子孫に伝える役割もあったのでしょう。
 もう一つは、豪族としてのし上がるのは実力主義で、功なった後に馬の骨ではと言うことで、祖神を並べて家系を飾ると言うことがあったのでしょう。

名草の神々−10−  イザナギ・イザナミノ命に話を戻します。イザナミノ命は死にのぞみ、鉱山の神、埴土の神、水神、生産力の神を生みます。
 湿地帯の開発、水耕栽培の普及を思わす神々の登場です。
 紀の国には式内社でこれらを祀る神社は見当たりません。名草郡に埴生と言う所はあったそうですがわえしらん。
 紀伊水道をはさんだ対岸の阿波の国には、埴土の神の波尓移麻比め神社、水の神の弥都波能賣神社が鎮座しています。 「粟」の名前の通り阿波の国のほうが穀物との関わりが強く、従って水耕栽培も早く始まったのかも知れません。

 イザナミノ命は黄泉の国にまいります。イザナギノ命は悲しんで涙を流しました。泣沢女の神が成りました。

 大和三山の一つの香具山の麓に泣沢女神を祀る式内社があります。万葉集に 高市皇子を悼んで檜隈女王が

 『哭沢の神社[もり]に神酒[みわ]すゑ祈れどもわご王[おおきみ]は高日知らしぬ』(万葉巻二 二〇二)

 と詠んだ句が掲載されています。 大和の哭沢の神社周辺は、湿地帯で水荵[なぎ]が生えていたので、その名がついたと言う説もあります。

 吉備町の藤並神社の境内にある三基の古墳の一つが泣沢女古墳と呼ばれています。この謂われは一体何でしょうか。 古墳が出来る所は普通湿地帯ではないですね。朝鮮半島の風習に残る泣女は、喪主に代わって泣き悲しむ女ですが、この風習が伝わっていたのかも知れません。 現に649年に阿倍倉橋麻呂薨去し、孝徳天皇朱雀門に幸し挙哀、また皇極上皇、中大兄など哀哭との記事が残っており、哀哭の風習があったようです。

 さて、藤並神社の古墳由来書には、斉明女帝(宝皇女)の御孫建皇子が八歳にして薨去、天皇は皇子の事が忘れられず、健康をそこなう有様なので、有馬皇子の勧めで白浜の湯へ湯治におもむいたとあります。658年。 この吉備の地は大和の建王子を葬った地と似ていたので、皇子の遺骨を納めたとの説明です。斉明女帝の名代に泣沢女がいたのかもしれませんね。なお有馬皇子はこの年に扼殺されています。ひょっとしたら!!

 有馬皇子を偲んで
 家にあれば笥[け]に盛る飯[いひ]を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る (万葉巻二 一四二) 

 イザナギノ命は火の神の迦具土の神の頸を切りました。岩石、剣の威力、水の神霊、渓谷、剣のつか、さまざまな山の神が生まれました。 刀鍛冶の作業を思わせますし、さまざまな山の神の誕生は火山噴火をも思わせます。

 檜隈女王の檜隈はヒノクマと読みます。日前神宮と同じ発音です。前にも書きましたが、大和の明日香村に檜前と言う所があります。 於美阿志神社と言う渡来人の東漢の祖を祀ったとされる神社が鎮座しています。一説には、この神社は磐橋神社と呼ばれ、別の所にあったとも言われています。 檜隈、岩橋と言う名、更にここから巨勢へ出て、紀の川に抜ける道筋があることを考えると、紀の川河口との関連が想像され、名草の紀氏の大和への拠点の一つだった可能性があるように思われます。

名草の神々−11−

 日本書紀の一書(第十)にイザナギノ命は黄泉の国へ行き、イザナミノ命との別れの際にはいた唾から速玉之男が生じ、掃きはらって(関係を断って)生まれた神を泉津事解之男と名付けましたとあります。

 熊野の神々の名が登場してきました。イザナギノ命の発した言葉と共に誕生した神ですから、生命力の神と離縁の神とされています。事解之男は言葉を離つ神、よく似た神では、一言主大神が雄略天皇と出会った時、我は言離(ことさか)の神、葛城の一言主の大神なるぞと言っています。 古代の離婚はどのようなものだったか知りませんが、現在ほど複雑ではなかったのでしょう。「出ていけ」とか妻問い婚では「もうこんわ」で済んだのでしょうか。三行半より短かった? 最後の一言ですね。しかし縁結びの神も登場していないのに、早々に離縁の神の登場と言うのもどうかと思いますね。記紀を作っていた連中は何に悩んでいたのでしょうか。

 イザナギノ命は禊ぎ祓いをします。筑紫の日向とありますが、神話の誕生の経緯からすると、恐らくは淡路島の近辺かもしれません。阿波の鳴門を候補地とする見方があります。 大和で記述されたとしたら、遠方ほど古代の雰囲気がでます。そう言う事で筑紫を持ってきたのかも知れませんね。
 禊ぎで様々な神々が誕生いたします。黄泉の国の穢れによって、災禍の神々が生成されます。 八十禍津日、大禍津日の神です。次に禍を払ってもとに戻す神である神直毘、大直毘の神が生成されます。
 大禍津日の神は大綾津日神とも言い、奈良県の五条市にあった大屋比古神社の祭神を大綾津日神であるとしています。 大屋比古神を大綾津日神とするなら、素盞嗚尊が八十禍津日の神で、二柱を猛烈な台風神などとする説がありますが、ピッタリです。国津神である大屋比古神の悲しさ、このような役回りも押しつけられたのでしょうか。
 尤も甘樫坐神社の神の前で、盟神探湯が行われましたが、ここの祭神は八十禍津日神や大禍津日神で、 うらないの神でもあったのです。災いをもたらすでけではなかったのです。託宣の神です。アイヌ語の「イタキ」とは、「かくのごとく言えり」の意味があります。伊太祁曽神をどう解釈するかの一つの材料です。

 イザナギノ命の禊ぎ祓いで、更に安曇系の神々、住吉系の神々が生成されます。海人族の齋祀った神々です。 安曇族は各地にその名を残しています。琵琶湖にそそぐ安曇川、祖神の安曇穂高見命の日本アルプスの穂高など海人が川沿いに山奥にまで入り込んでいます。 祖神に安曇磯良とか安曇磯武良命がいます。磯良はイソラとかシラと読めます。新羅との関連が出てきます。 また磯武良はイソタケラ、何となく伊太祁曽神社の祭神の五十猛命を連想します。

 住吉大社の摂社に船玉神社があります。住吉三神の荒魂を祀るとも言われます。えかわさんに教えて頂きましたが、この船玉神が熊野本宮の奥に祀られているそうです。発心門王子の西です。 また、この船玉神が、紀伊三所神、伊達、志摩、静火の元宮とも言われています。紀伊三所神は武内宿禰が祀ったとも伝わっています。

名草の神々−12−

 武内宿禰が祀ったと伝わる紀伊三所神はすなわち紀氏が齋祀った神々です。
 大和岩雄氏は『息長足姫命(神功皇后)は日神であり、大八嶋の天の下に日神を船出させた船を紀ノ国で祀ったのが武内宿彌である。その神々とは紀ノ国の志摩社、静火社、伊達社の三船玉神、紀州三所神である。と住吉大社神代紀に記すと』とされています。
 伝承では紀伊三所神は元々日前國懸神宮を概ね北、西、南に2km程離れて囲む位置に鎮座していました。東2kmは香都知神社に当たります。
 また、伊達神社の祭神は五十猛命であり、従って志摩神社、静火神社も五十猛命の妹神とされる大屋都姫命、抓都姫命を祀ったともされています。 播磨国風土記には神功皇后の軍船の先頭には御船前韓国伊太氏神(氏は_が付いている字:低の旁)が祭られたと記載されています。 また住吉神社の由緒書きの説明では、「三韓を征し給ひし時に当たり特に神教を垂れ給ひ其荒魂は先鋒となりて舟師を尊き」と出ています。 皇后の軍船の先頭に祀られたのが、住吉大神の荒魂であり、伊太氏神であるということから、伊達神社は住吉三神のひとつとされたとすれば、三所神にそれぞれ割り当てられることは自然です。
 なお、この時に赤土を船体に塗ったか、敵にぶつけたとかあり、これが丹生都姫神を筒川に祀る由縁との話になっており、天野大社すなわち丹生都姫神社の由緒譚になっています。

 静火神社について、山火事などを起こさないとか山火事を鎮火せしめるとの願いの神であるとの解説もあります。 一方、続風土記によれば、静火神社の近くの朝日と言う地名とあわせて、深く沈んでいる樋、浅いままの樋と解釈しています。 用水路の姿を神社名にしているとの見解です。静火神社は本来は田の中にあった神社で、農業にかかわる神であるとの伝えもあります。 そのような意味で静火神社を続風土記が言うように理解することが出来ます。 ただ、普通の田の神とすれば、(田の神を軽視するつもりはありませんが)延喜式で大社とされたのは不思議な気がします。 静火神社は日前國懸神宮の南2kmの位置です。
 志摩神社は新在家の十五社神社の場所に鎮座していたようで、宮井川の初期の取水口の近辺に当たります。やくざのなわばりに残っている言葉の「しま」は地域を表します。 この地からは豪族紀氏の許可なくして立ち入り禁止の地域であるよ、と神社名を考える事が出来ます。日前國懸神宮の北2kmに当たります。
 現在の志摩神社の所には伊達神社が鎮座していました。西(西北西)2kmと地点に当たります。 紀ノ川の曲がり角の要所です。この辺りから南の方に広大な砂丘が広がっていたそうです。平地に所々崩れやすい砂山があり、弱山と言われ、和歌山の語源となったそうです。結果としてえかわさんご指摘の万葉風県名を得ることができました。
 海からの侵入者を見張る場所だったのでしょう。名草の出城のような位置になるのでしょうか、名草の武、すなわち五十猛命が鎮座するにふさわしい場所です。
 この様にして、伊達神社が五十猛命である事からも紀伊三所神は自ずから五十猛命三兄妹神に比定されたのでしょう。


0143  名草の神々 −13− 

 イザナギノ命が左の目を洗うと天照大神、右の目を洗うと月読命、鼻を洗うと建速須佐之命が生成されます。 いよいよ、三貴子の登場です。太陽と月とくれば普通の感覚では星ですね。 熊野本宮大社には日月星を遙拝する三光遙拝所がありました。
 星神としては、古事記の最初に天地の初発の時、「天之御中主神がなります。」と言うことで、とっくに出ているのです。ここでは三貴子のひとつ、スター神の須佐之男命が出たことにしています。
 須佐之男命を台風の神と考えると、こじつければ天空の丸いもの、すなわち台風の目を丸いものとしたと言えるでしょう。

 左右の目から太陽と月が生まれると言う神話は広く東南アジアに分布しているそうです。 鼻から神が生じるのは、記紀のオリジナルかも知れません。鼻息、やはり台風をイメージさせますね。
 縄文の神の代表、あらぶる国津神の雄である須佐之男命を天照大神の弟として、王権神話の中に組み込んで国家の統合を図ったのでしょうか。

 さて、皇祖神とされる天照大神ですが、日前国懸神宮では、日前神・国懸神を共に天照大神のことと説明されています。

 紀伊半島を横切る中央構造線、このラインは金属資源が豊富ですが、この西端に日前宮、東端に伊勢神宮が鎮座しているのは偶然ではないと思います。 大和王権が金属資源を直轄しようとする意志の現れと見ることができないでしょうか。武力により王権を獲得した天武天皇の意志を感じます。日本書記に「天武天皇2年大来皇女を天照大神宮に遺侍さむとして、伯瀬斎宮に居らしむ。」とあり、この時より皇女が差し向けられました。 王権が天照大神を皇祖神として祭り上げたのです。
 東西の神宮を王権の意志の現れと理解すれば、日前國懸神宮の神を天照大神として祭るとしていても不思議ではありません。この頃、紀氏は天照大神を受け入れ、祀ることになったのでしょう。国懸神の創祀と思われます。国懸とは「国見をする」「国を脅かす」などと解釈されるようです。

 余談になりますが、三重県のある宮司さんから教えて頂いたのですが、中央構造線を調査している東大地震研究所及び成蹊大のサークルが、丹生姫神を祀る神社や幾つかの式内社がまさに構造線の真上に鎮座していることを見出したとのことです。 構造線からのエネルギィを感じてとか、そのエネルギィを鎮めるために神社を設けたとも理解できます。

 さて、皇太神宮につきましては、OkuPapaさんです。よろしくお願いいたします。皇太神宮の事だけではなく、瀬藤の記紀理解や神々については我流でやっていますので、誤解をしている所が目立つと思います。ご指摘頂ければ幸甚です。

 建速須佐之命を祀る最も社格の高い式内社は有田千田の須佐神社です。須佐之男命のルーツと見られている出雲ではありません。
 千田の須佐神社については、えかわさんが推測されているように、ここに祀られたのは紀氏の力が働いているものと思われます。 社伝では和銅六(713)年、紀ノ川上流の大和国吉野郡の西川峯から遷座したと伝わっています。 続風土記には「寛永記(1624−)に名草郡山東荘伊太祈曾明神 神宮郷より亥の森へ遷坐し給へる年月も是と同しきは故のある事なるへし」 と出ています。おそらくこれは伊太祁曽神社が亥の森から現社地への遷座の事をさしているものと思われますが、和銅年間には多くの神社について創建、勧請の伝えが残っており、朝廷の新しい神祇政策が打ち出されたのでしょうか。


0145  名草の神々 −14− 

 前記寛永記は豊臣秀吉が紀州の社寺を焼いていった後に作られた物で、この須佐神社のことはどこまで正しいのか不明です。 と言うのは、続風土記に須佐神社への冒涜の話が以下のように出ています。
 天正七年(1579年)豊臣秀吉公信長公の命を受けて此地を畧せる時湯淺の地頭白樫左衛門尉實房内應をなし里民を強暴し神祠を毀壊す。 社家大江氏重正といふ者神器靈寶及縁起記録等を唐櫃二具に蔵め今の神祠の後光谷といふ谷の林中に隠す。 實房これを捜り出し或は火に投じ或は海水に没し亂虐殊に甚し。 これに因りて當社の傳記文書の類一も傳はる者なく古の事蹟詳にするによしなし。
 白樫左衛門尉實房の言う人の悪名はこれで永久に語り継がれます。神罰と言うべきか。

 なお、千田の須佐神社は元々名草郡に鎮座していたのではと小川琢治さんが指摘をされています。 とすれば、いったい名草郡のどこに鎮座していたのでしょうか。
 候補一 口須佐の須佐神社  山東荘口須佐村
 候補二 日前國懸神宮現社地 ここは名草万代宮とも言います。
 候補三 伊太祁曽神社現社地 山東荘伊太祈曽村西ノ谷
 それぞれそれなりに説明がつきそうな候補地です。これにつきましては、後の伊太祁曽神社、五十猛命の所で再度触れることになると思います。

 三貴子の話に戻ります。
 月読命は目立った活躍は記載されていません。古事記では阿波の穀物の神を殺すのは須佐之命ですが、日本書記では月読命の仕業となっています。 この神を祭る式内社は紀の国には見当たりません。京都の松尾大社の南に月読神社が鎮座し、尊のハンサムな像があるそうです。

 イザナギノ命は三貴子の誕生を大いに喜びました。御頸珠の玉の緒を取りゆり鳴らせて、天照大神に与えて申しました。 「汝は高天の原を治めなさい」と。この御頸珠の名を「御倉板挙の神」と言うとあります。
 日本の民俗学の祖でもある柳田国男翁は「御倉は神几にて祭壇の義なるべし。 この板挙之神は古註に多那と訓めあれど義通ぜず。 おそらくはイタケの神にして、姫神が父神を拝祀したもうに、この遺愛の物を用いたまいしことを意味するならん。」と明治末期に述べています。 このイタケの神とは伊太祁曽神社の祭神の五十猛命を指しています。翁は齋神として五十猛命を理解しているのです。 この件は後述する事にして、三貴子の話に戻ります。
 イザナギノ命は月読命に「汝は食国を治めなさい」と言いました。夜の神としたのでしょう。「月食」の現象を死と再生に結びつける見方もできます。
 須佐之命には「海原を治めなさい」と言いました。これに対して命は泣き叫き、「母の国の根の堅州国に行きたい。」と譲らなかったので、遂に、追放されました。 須佐之命の第一回目の追放です。それにしても、古事記ではイザナギノ命は一柱となって神を生成しており、母神のイザナミ命は誕生にはかかわっていないのに、どうして母の国に行きたいと思ったのでしょうか。 不思議な話です。これが神話の神話たる由縁でしょうか。
 日本書紀では、イザナギノ命、イザナミノ命の国生みに続いて三貴子が誕生しています。伝承に混乱があると言う事で、記紀が宮廷の編集局で創作されたのもではない証拠かもしれませんね。

 天照大神に別れを告げるべく、いよいよ須佐之男命は高天ヶ原に乗り込みます。
 全くの創作ではないとしたら、どのような歴史上の出来事を反映しているのでしょうか。
 新しい権力の登場とそれへの抵抗が、数多くなされて来たのでしょうから、これらの事が須佐之男命の高天ヶ原での行動に反映しているのかもしれません。 また大国主命の国譲りや建御名方命の話、さらには神武天皇東征譚などにも、新旧の勢力の葛藤がうかがわれます。
 さて、記紀を作成した王権側には銅鐸については、その記憶の痕跡が見当たらないようです。 銅鐸はこの国の弥生時代を象徴するおそらくは祭祀の道具であったはずです。その記憶が見事に消えているのです。

 これは不思議なことです。何故でしょうか。


0146  名草の神々 −15− 

 銅鐸の記憶が記紀に現れてこないことは色んなことを考えさせます。
 銅鐸は口にするのもはばかられる程の神聖なものだった。これによる祭祀を司ったのが、ごく一握の人々であって、彼らにより占有・埋匿されたものだったので、民人によって語り継がれるようなものではなかった。 すなわち祭政を司った人々は一掃されてしまったと言うことでしょうか。 いずれにしろ弥生時代の権力者や祭祀を司った人々と全く異なった銅鐸と無関係な人々が登場して、王権を創設し、記紀を著したとしか思えません。

 名草郡では太田黒田の住居遺跡から銅鐸が出土しています。名草郡ではそのころ何が起こっていたのでしょうか。紀元3世紀の後半にこの住居遺跡の住人の姿がぷっつり途絶えているのです。 しかしながら名草全体の住人数は徐々に増えているそうです。洪水の跡もないようです。 この時期は邪馬台国では台与の消息が途絶えた頃ですし、朝鮮半島からの移住者は「牛のよだれのごとく」と形容される大変動のあった時期にあたります。 また大和では箸墓古墳が築かれます。記紀では所謂三輪王朝と言われる崇神天皇の頃に当たります。後ほどの課題です。

 紀の国での銅鐸出土は、北部からは初期の小型銅鐸、南紀の御坊や南部川村からは後期の大型銅鐸が出ています。 くっきりと鮮やかな差があるそうです。見てきたように弥生時代を語ると言われる水野正好奈良大学学長に言わせれば、 北部は初期に大和王権に服属して、水運などで大いに協力し、初期の小型銅鐸を貰った。南部は遅れて服属して、その後重要視され、大型銅鐸が配られたと解説をされています。(古代豪族紀氏)

 もしそうだとすると、銅鐸を配った崇神の三輪王朝と記紀を編集した権力とは異質だったと言えます。やはり王朝交代が幾度か行われたと考えるのが自然ですね。

 箸墓のある巻向遺跡からは東海地方など各地の土器が出土していますが、現在の出土分では紀の国の土器は極微量のようです。紀の国は三輪の王権との関係は薄かったかも知れません。 名草の人々は箸墓の造営には参加していないのではないでしょうか。疎遠だったのかも知れません。銅鐸は大和王権からの授かり物説には疑問を持たざるをえません。
 同じ鋳型から作られた銅鐸が各地から出ているからと言って、一つの王権が配っていたとするのはどうでしょうか。 それよりは、いくつかの銅鐸製造センターがあって、祭りの道具の商人が各地の豪族に売り歩いていたと考えるほうがましだと思っています。古代の流通経済をもっと考える必要があるように思います。

 銅鐸と関連があると思われる記事が播磨国風土記にあります。 これには、4世紀初めに呉勝(くれのすぐり)が名草の太田に居住し、その後摂津の三嶋、播磨の揖保に移住したと記されているのです。
●名草の太田 日前國懸神宮の鎮座地付近です。銅鐸が出ています。
●摂津の三嶋 大阪府茨木市です。太田と言う地名と太田神社があります。その南側の東奈良と言う所から銅鐸や鋳型が出土しています。製造販売のセンターだったのかも知れません。浪速の商人ですね。「もうかりまっか」「ぼちぼちでんな」てな会話が飛び交っていたのでしょう。紀の川沿いの緑泥偏岩を運んで作った古墳があります。 紀の国をふるさととする金持ちがいたのでしょう。
●播磨の揖保 姫路、竜野付近です。両市の間の太子町に太田と言う地名が残っています。物部系の矢田部連の居住地です。山奥の山崎町は銅鐸の道と言われる地域で、摂津の銅鐸と同じ鋳型から作られたものが出土しています。
○(讃岐の山田) 高松市です。太田の地名は残っています。播磨と関係の深い地域で、ここからも上記と同じ形の銅鐸が出ています。

 谷川健一さんの名著「青銅の神の足跡」によりますと、銅鐸と言えば物部氏や伊福部氏が主に作ったとされています。 摂津、播磨には物部氏の祖神を祀る神社が鎮座しています。紀の国名草では栗栖紀氏神社高橋神社が大日山の東北側にありますが創建年代は不明です。 紀の国でも銅鐸が作られていたのかも知れません。これに従事していた人々が摂津や播磨に移動していったことが播磨風土記に記載されているのかも知れません。 但し、銅鐸を思わせる記述を播磨風土記のなかにはまだ見つけることは出来ていません。

 摂津と播磨とは神社でも強い共通点があります。摂津には新屋坐天照御魂神社「火明命」が三座と疣水神社「磯良大神」、播磨には粒坐天照神社「火明命」が鎮座しています。 摂津の疣水神社の名は粒坐天照神社の「いぼ」とは何か関係があるのではと思います。 紀の国には先ほどの物部系の神社と旧事本紀に饒速日命降臨に供をした三二人衆の中に紀の国の国造の祖とは書かれていませんが、天道根命の名が出てきます。

 素朴な感じの話の多い播磨風土記に紀の国の名草の太田からの話が出ていることは信用してもいいのかもしれません。


0147  名草の神々 −16− 

 あさもよしの皆様、今年もよろしくお願いいたします。  
昨年末には、三貴子が誕生、須佐之男尊の高天原行き、そこから何故か、太田黒田遺跡、銅鐸へと話は脱線中でした。銅鐸の出土数では、紀の国は、出雲、阿波などと並ぶ多い地域です。後期の大型銅鐸は阿波、土佐など紀伊水道の対岸にも集中しています。
 銅鐸は、偶然にしか発見されないような埋め方がなされていますから、今後もよく似た比率で発見されるのでしょうが、突然なにが出るかは予測はすきません。 「出たもの」で語るのはいいのですが、「出ていない」ことで語るのは怖いですね。

 記紀に戻ります。高天ヶ原では、須佐之男命に対して、天照大神は手に珠を持ち、珠の威力を発動せんと構え、完全武装のスタイルで男建(おたけび)をして待ちかまえています。 どう見ても女神とは思えない姿です。
 天照大神は須佐之男命を疑っています。心の清明さを立証すべく、神に誓って神意を伺うことにあいなりました。誓約(うけひ)の開始です。
 天照大神は須佐之男命の剣を振って、霧を吐きました。この時、宗像三女神が誕生しました。三女神は須佐之男命の子とされました。
 次に須佐之男命が天照大神の髪に飾った珠を振って、霧を吐きますと、天忍穂耳命、この様にして天菩卑命、天津彦根命、活津日子根命、熊野久須毘命が生じました。天照大神の子の五男神です。
 天忍穂耳命は皇室の祖神です。天津彦根命は木の国の造等の祖とあります。日本書紀には木の国の祖の件は省かれています。
 問題はこの木の国が一体どこの木の国を指しているのか、紀の国とすれば国造は紀氏の祖と言う事になります。 紀の国の紀氏(紀直)としては飛びつきたい程の祖先ですが、紀氏の系図には入っていないようです。もう一方の紀朝臣は武内宿禰からの分岐で、これまた天津彦根命が祖神とはしていません。 どうやら、紀の国とは関係がなさそうです。

 宇佐神宮の宮司家の宇佐公康さんの宇佐神宮に伝わる古伝の紹介の本には「木国は南九州の日子の国(日向)にあったが、のちに東九州の国東半島に移り、やがてここ紀の国に移ってきたとされています。 木造建築、木工技術をもたらした神としています。

 『八幡信仰』の研究家の中野幡能さんによりますと、五十猛命と南九州とには深い関連があるようです。
 宇佐八幡の祭祀にかかわったのは、宇佐氏、辛嶋氏、大神氏です。宇佐氏の原始磐座信仰へ、辛嶋氏のシャーマニズムが持ち込まれ、その上に大神氏の譽田別の八幡信仰が重なったとしています。
 「辛嶋勝姓系図」によれば辛嶋氏は素盞嗚尊を祖とし、その子五十猛命を奉戴し、新羅を経由し筑前國筑紫神社に五十猛命を祀り、次に香春岳で新羅の神を祀り、さらに宇佐郡に入ったと言います。 ここに五十猛命の子孫の名前が登場しています。木の国、紀の国の歴史に関係があるかも知れませんので紹介していきます。

 神々の系譜   瀬藤推定の地域名と由緒がありそうな神社「祭神」
素盞嗚尊     
五十猛命     
豊都彦トヨツ   豊の国
豊津彦トヨツ   豊の国
都万津彦ツマツ  宮崎県児湯郡妻町 五十猛命の妹神に抓津姫あり 都萬神社「木花開耶姫 神名帳考證には抓津姫」
曽於津彦ソオツ  鹿児島県国分市 韓國宇豆峯神社「五十猛命」
身於津彦ミオツ  日向市美々津町 神武天皇の船出の伝承地 立磐神社「住吉三神」
照彦テル
志津喜彦シツキ  鹿児島県曽於郡志布志町 枇榔神社「乙姫」
児湯彦コユ    宮崎県児湯郡 都農神社「大己貴命」
諸豆彦モロツ   宮崎県諸県郡 都城市 早水神社「諸縣君牛諸井」
宇豆彦ウヅ    大分県北海部郡佐賀関町 早吸日女神社摂社木本社「椎根津彦命」、同町 椎根津彦神社「椎根津彦命 配 武位起命」
豊後国史には椎根津彦、珍彦、宇津彦を同一神としています。
宇豆彦は紀氏の系図では宇遅比古の子、山下影姫(武内宿禰の母)と兄弟と同一の名です。

 これを見ると一つは南九州の地名が目立ちます。南九州の熊襲制圧軍は五十猛命の旗を先頭に攻め込んだと伝わります。 軍神の頭領神の顔が見えます。これは、東国征圧に活躍した日本武尊や坂上田村麿も五十猛命を祀っている事にも付合します。 神功皇后の軍船の先頭に祀られた御船前韓国伊太氏神も五十猛命とされています。

 もうひとつは、宇豆彦の名です。紀氏の祖先に宇遅比古、その子に宇豆彦が出てきます。紀氏は五十猛命を祖神としていたのかも知れません。 紀氏の秘密系図なるものは、須佐之男命から記述されているとのことです。紀氏のルーツを南九州と考えれば、神武天皇東征に天道根命が付いてきたとの伝承もむべなるかなと思われます。 また、宇豆彦を珍彦とすれば椎根津彦ともとれます。椎根津彦の父神は起位武命です。五十猛命とよく似た名前です。

 丹後の籠神社の由緒に祭神の火明命の子神に起位武命の名が見えます。通常、火明命の子神で有名なのは天香山命で、新潟の弥彦神社の祭神とされています。 五十猛命の別名の大屋毘古神の「大」を除いた名前と一緒です。一つの輪が九州、紀州、丹後、越後でつながってしまいました。
 紀氏と宇佐神宮の祭祀を行った辛島氏は同族だったのかも知れません。石清水八幡宮の祭祀を紀氏が行った由縁はこのような所に見えてきますね。

 話がつい五十猛命に行ってしまいました。寄り道のおかげで紀氏の祖神が五十猛命か知れないことが出てきました。
 五十猛命が樹種を播き始めたとの伝承の残る基山がある基肄郡を木の国とする説もあるようです。

 五男神の中に熊野久須毘命の名が出てきました。紀の国の熊野坐神社の本来の祭神名が熊野久須毘命とされますので、これは紀の国熊野の神を言うのでしょう。


0147  名草の神々 −17−
名草の神々−13−で 国懸とは「国見をする」「国を脅かす」などと解釈されるようです。 と書いたのですが、この内「国見をする」は意訳すぎるので、「国を輝かせる」に訂正いたします。

 いよいよ記紀の最初のクライマックス須佐之男命の乱暴狼藉と天照大神の石戸隠れの有名な段にさしかかりました。
 須佐之男命は田の畔を壊したり、溝を埋めたりの、水耕稲作の妨害を行います。 神御衣を織っている所に馬の皮を剥いだものを投げ込みます。織女は織機から落ちて杼がホトに突き刺さり死んでしまいます。 紀の一書では天照大神や稚日女尊が傷を受けるとなっています。

 東北のオシラ祀り”の云われの中に次のようなものがあります。
 長者夫婦は、観音様に祈願して、美しい娘を授かった。ところが、長者の飼っていた馬が娘に情を寄せたので、怒って長者は馬を殺して皮を剥いでしまった。すると、はがれた馬の皮は娘に抱きついて飛びさってしまった。
馬の皮と娘の死、このモチーフの神話は大陸にも多くに見られるようで、このように記紀にも取り入れられています。

 杼は「ヒ」と読みます。近年の織機では杼をシャットルと言い、開口した経糸の間に緯糸(ぬきいと)を通すものです。 余談ですが、タイ国でコーヒを注文する際、コーヒと発音するのは避けてください。「ヒ」はずばり女性器を表す言葉なのです。 「コー」は乞うですから、失礼な言葉になります。おそらくタイ国だけではないでしょう。古代の日本でも同じような意味があって、このような説話が出来たのでしょう。 「脾弱い」と使われる脾でもあり、胎内に命を宿すもの、命の根元の日・太陽をも合わせて示しています。

 和歌浦の玉津島神社の祭神は稚日女尊で、社記には丹生都比売の別名とされています。 天野の丹生都比売神社から神輿遷幸が玉津島神社にまで行われたそうです。濱降[ハマクダリ]の神事と呼ばれていました。

 丹生都比売命=稚日女尊 の等式は大和王権が確立してから生じたものかも知れません。 丹生都比売は国津神で、具体的な存在感があるように見えます。稚日女尊は机上で構想された神のようで具体的存在とは思えません。 神社の神階を上げるべく、天津神と同じ神、ましてや天照大神の妹とするのは神社にとってこの上もない系譜を手に入れたことになります。 古老曰わくですが、紀の国の筒香の里のほうでは、降臨された神を天照大神と思っていたとも伝わっています。
 神官も氏子も、記紀に自らが齋祭る神の由緒を求めるとすれば、高天原の神で、天照大神の妹神としたらまさにこれに勝る神様はいませんね。 江戸時代には、伊太祁曽神社の祭神を日抱尊として、天手力雄に比定する話もあったようで、続風土記の作者から、「供僧等かゝる妄作をなし妄作の御名抱腹に堪さる事なり」とされています。
 およそ神々の事ですから、そうだった、否そうではない、と言う事より、人々が信じたと言う事でしょうね。信じて祀っている人にとっては、神様の名前には無頓着な方が多いように思います。 氏神様で十分なのです。
 神様の名前にしつこくこだわる方が場違いな気がすることがありますね。


0147  名草の神々 −18− h13.1.11

 須佐之男命の乱暴な振るまいに、天照大神はとうとう天石戸に隠れてしまいました。 高天原は暗くなってしまい、悪い神々がうごめきました。

 魏志倭人伝の中に出てくる邪馬台国の卑弥呼の死を、この事件になぞらえて、卑弥呼は日巫女で、天照大神のことだと称する研究家もあまたいるようです。
 魏志倭人伝が指し示している時代は2〜3世紀の辺りです。この頃の皆既日食を調べて、その事件が天照大神の天石戸に隠れの伝承として残ったのだとする興味深い見方があります。 それも九州で見事な皆既日食が見えたはずで、邪馬台国九州説の補強資料になっています。 パソコン天文学ソフトが簡単に手に入るようになり、こう言う研究が容易にできる時代になりました。 西暦247年の3月24日の日食は午後から徐々に太陽がかけ始め、ついに隠れたままで、日没を迎えました。さあ、大変だ、女王の神通力が失せてしまったと言うことのようです。 卑弥呼は翌年に死んでいます。この日食が天石戸隠れの神話になったとの説です。
 翌朝になれば、太陽は本来の姿で昇ってきます。私は日食と天石戸とを結びつけるのには、その短時間の出来事であること、太古から繰り返されてきた現象であること、ましてや類似の月食は毎年起こりうることなどを考えますと、その説に無理を感じます。 それよりは、火山の噴煙で、作物が不作になるとかの問題が起こり、それが暫くは続いたとか、句奴国との戦況が不利のまま推移したとかで、当時の人々に卑弥呼の神通力に対して大きい不安を持たせたことではないかと思っています。
( ひまわり亭さんの『心の料理』の「天の岩屋戸」と日食の話 に氏のお考えやよく似た世界の神話が紹介されています。http://www.ah.wakwak.com/~himawaritei/kokoro-20.htm )
 さらに、まず、天照大神は日本の最高神として構想された神です。伊勢の皇太神宮の御神体は心の御柱で、これを齋き祭る巫女が神格化して、天照大神となったとの説もあるくらいです。 かたや卑弥呼は実在した生身の人間で、たまたま魏志倭人伝に名が記載されているということです。
 記紀では、神功皇后と卑弥呼を重ね合わせるような記述がされており、記紀を編集していたインテリ貴族も、天照大神=卑弥呼説にはのっていません。


0148 名草の神々−19−
 

 卑弥呼=天照大神説を検討していました。
 百歩譲って、天照大神がとある人間の投影だったと仮定して、たまたま大陸の歴史書に始めて登場する女王が天照大神であるとの確率を計算すれば解る話です。
 魏志倭人伝はざっくり100年間の事を記載しています。日本の神々が構想されていったのを弥生時代から古墳時代として、約1,000年間としますと、時代的に当てはまる確率は10%、 また日本には幾つかの国々があって、これを10国とおいて、天照大神が統治していた国があったとして、その国が卑弥呼が統治していた国と同じである確率はこれも10%、掛け算でききますから、1%程度の確率で天照大神は卑弥呼の投影、と言えるのではないでしょうか。九分九厘違うと言うことです。

 卑弥呼=天照大神のもう一つの興味ある説は古代の大王の在位年数が約10年程度、確実に年代が判っている天皇を起点として、天照大神までの年代を逆算すると、丁度卑弥呼の生きていた時代に重なると言うものです。 神武天皇の次から開化天皇までを欠史八代として実在が疑われている中での、全部存在した、祖先の名前は忘れられることはない、しかし年代は全く不明との観点に立っています。 世界的には近親結婚を避けるためにも、ある程度祖先の名前は記憶されることはあったそうですが、全部が全部実在して記述され、それが直列になっていたと言い切れるでしょうか。

 先日、ひまわり亭さんが「神代文字」のことを調べられているとの発信がございましたが、隋書に「倭国王は夜明け前に政(まつりごと)を行う」と答え、隋帝は「義理なし」と言ったとの有名な話があるように、6世紀末になっても、闇夜で政を取ったと言うことですから、書いた物がない状態で、政を行っていたと解釈できます。
「政の場にすら文字は使われていなかった=(共通に使用されていた)文字はなかった」可能性がありますね。
書いた物がない状態で、幾度も権力が交代して来ている、銅鐸の記憶すら失われた時代の貴族が記載したものが記紀です。それをよりどころにして、卑弥呼と天照大神の年代を重ねるのは、貴族の作為の上に現代の学者の作為を重ね合わせた産物のように思えます。

 神代文字のことはわかりませんが、古墳や建物を造る際に計画書や指示書はあったはずです。何らかの記号や各氏族特有の文字があって、それぞれに使われていたとは考えられますね。
 また紀伊続風土記によりますと、丹生都姫神社の所蔵古文書に「譽田天皇勅筆祭文一帖神殿に秘蔵して總神主の外は見る事を許さす」とあります。 真偽の程はわかりませんが、kammerさん、写真かなんかでもお持ちだったらこれは凄いことですよね。


0151 名草の神々−20−

 さて国津神は「多に蛍火の光く神、蠅声す邪しき神」と形容されていますが、その分、息づかいのする、存在感のある神々のように見えます。 それに対して、天津神は系図上の位置がよりどころのように見えます。宮廷にはどの程度の神話が伝わっていたのか判りませんが、天津神は構想された神々、頭脳の産物の神々と見たほうが良いのかも知れません。
 佐賀県に基山と言う山があります。白村江の戦いの後で九州に二城を築いた内の基肄城の跡がある山です。 ここに荒穂神社が鎮座しています。祭神は瓊瓊杵尊、五十猛命となっています。所が地域に伝わる民話伝承は五十猛命の鬼退治伝説、契り山伝説、植樹伝説など五十猛命に関するものが多く残っています。 一方、社伝には瓊瓊杵尊が国見をした山と記されていますが、民話集には瓊瓊杵尊の名は出てきません。

 とどのつまり、次のような民話が語られています。
荒穂さんは、元は大地主の作男で、この地主は人使いが荒く、三日三晩不眠不休で働かされて寝てしまい、その間に馬が畔の草を食べていった範囲の住人が氏子となった。
荒穂神はついに作男にされてしまいました。これは、各地で国譲りが行われたこと、すなわち国津神が開拓した国土を天津神がおさえていったことを民衆が民話の形で残したのでしょう。

 この基山付近は交通の要路で、北九州からと有明海からの合流点で、九州の中央部を横断して豊国に出る道筋に近い所です。紀氏の九州での一つの拠点だったのかも知れません。

 さて、天照大神は天岩戸を閉じて隠れます。夜のように暗さが続きましたので、八百万の神が天の安の河原に集いました。 知恵の神様とされる思金の神が考えて、天の金山の鉄を取って、鍛人天津麻羅を求めて、伊斯許理度売の命に科せて、鏡を作り、 (中略)、布刀玉の命が御幣を持ち、天の児屋根の命が祝詞をとなえ、天の手力男の神が岩戸の脇に立ち、天の宇受売の命が桶のようなものの上に立って、これを踏みならし、 神懸して、胸乳をだし、裳の紐を陰に忍し垂りき、八百万の神々が大いに笑ったとあります。
 日本書紀の一書(第一)には、「大神のかたちを映すものを造り」として日矛を造っています。これを紀伊国においでになる日前神としています。

 多くの神々が登場してきました。天津神のオンパレードです。高天原最大のピンチ、ここに出てくる神々を祖神とする豪族が大和王権を支えたと認められたのでしょう。
 この物語に出てくる神々の多くは日前國懸神宮に祀られています。

 思兼神は伊都郡の蟻通神社にも祀られています。
全くの余談ですが、蟻通神社と言う名の神社は他には田辺市の蟻通神社「天児屋根命」、泉佐野市長滝「大国主命」、奈良県吉野郡東吉野村丹生川上神社中社通称蟻通さん「罔象女神」、滋賀県伊香郡木之本町の蟻通神社「大穴持遅命」となっています。

 作られた鏡、日矛、紀伊国においでになる日前神の登場です。名草郡を神領とした日前國懸神宮に関連します。このことを記載している日本書記の一書(あるふみ)[第一]は紀氏が伝えた物語ではないかとされています。天照大神をかたどった日矛は日前神とされています。 名草の神々−8−で、日前國懸神宮を名草上下溝口神と呼んだとし、上宮を日前宮、下宮を國懸宮と書きましたが、日前宮の古記によりますと、國懸社を上宮、日前社を下宮としていたとのことです。訂正しておきます。

 鏡については諸説があります。また日前神、國懸神についても完全には解明されていないようです。
 現在の日前國懸神宮の両宮は同一敷地内に並び建っています。両宮は伊勢の皇大神宮とともに神階を贈られない傑出した格の神社でした。 往年の紀氏の実力は大和王権と同等な存在のように見えます。

名草の神々と歴史 巻二一から

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