浪速の神社史

序 神社について

 
古事記 今年は古事記選録1300年目です。奈良時代の712年、太安萬侶が稗田阿礼の詠み誦み習った天皇家や各豪族に伝わっている系図や伝承を編纂して元明天皇に献上したもの。太安萬侶の墓が奈良市内で発見されていますが、珍しいことに墓の中から墓誌が出て、太安萬侶の墓と特定されたのです。天皇の墓でも墓誌は出てきません。

 その古事記では一番最初に出てくる神様は天御中主と言う宇宙そのものや北極星を示す神です。頭で考えたような気がします。

 最初の神 自然の猛威を鎮めたいとの人間の気持ちが「自然の猛威」を神として祀り鎮めようとしたのでしょう。稲光・雷こそ、人が怯え、鎮まるのを願ったのです。神と言う文字は、祭壇を表す「示」すと、イナズマを表す「申」でできています。注連縄につける御幣は稲妻の形をしているのも、雷が一番怖かったのでしょう。
 日本では絶滅した狼はその名のごとく神だったのです。真神とも言いました。奈良の明日香に真神ヶ原と言う地名が残っていました。
 縄文時代の土器などに描かれている「蛇」は「オカミ」と云います。

 神を祭る場 貴重な水がわき出す泉、これを守るために周辺を立入禁止として、神の坐す所としたことなどが神の領域の発生だったのでしょう。また、巨石や巨木を神が降臨する所として祀ったのです。従って、元々神社と言う建物はなかったのです。奈良の春日大社の場合、森と入り口の鳥居のみがあり、鳥居をくぐっても祭りの場所に行きつくのが大変だったようです。 祭りの場は臨時に設けられたのです。
 建物が出来始めたのは、きらびやかな仏像や美しい色の寺院ができて、民衆はそれに目を奪われるようになり、対抗上、建物を建て始めました。当初の神社の色はほとんどが朱色に塗られていたといいます。
 神社の建物ができますと、神が常駐すると考えるようになりました。しかし、祭礼の日には、神降ろしを行ってから祭りを開始するケースがあり、あいまいな所です。

 お参りのしかた 鳥居をくぐり、玉砂利を踏みしめで手水舎に進みます。玉砂利は水の中を歩くことに相当し、足下を清めます。手水舎で、手と口を濯ぎ、いよいよ拝殿前に進みます。
 次に賽銭を出して賽銭箱に入れます。放り込むのです。これは、「神様に捧げるのではなく、神社に寄付をするのでもなく、自分の身に付いた穢れをお金につけて解き放ち、身を浄める行為なのです。これで、身も心もきれいになったのです。
 次に拝殿の前で、鈴のひもを引っ張り、鈴を鳴らします。しばらく時間をおいてから、二礼、二拍手、一礼を行います。祈念は二拍手の後でもどこでもいいとなっています。出雲大社や宇佐八幡宮では、二礼、四拍手、一礼、伊勢神宮では二礼、八拍手、一礼となっていますが、基本的にはどうでもいいこと。
 社務所でお札を貰いますと、これを持って拝殿の前に行き、守ってほしい人の住所・氏名と目的を神様に告げて下さい。そうしないと、神様は誰をどうするのかわかりませんから。

 どの神様に何を 竃の神には竃のこと・火の用心、水の神には水のことをお願いするのが当たり前です。しかし、地域にある神社(氏神なり産土神)には、何でも祈念していいのです。氏神様が不得意なことであれば、得意とする神様に取り次いでくれます。神々の世界の代理店のようなものです。
 氏神 元々は一族が祀る神のこと。一族を守護する神。
 産土神 その土地を守る神のこと。土地の生成物、河川から土地に住む人間の生活全般を守る神。
 神については、神に祈るのではなく、神を祈ることが肝心です。そうしますと、神は供に祈ってくれるのです。
 とはいえ、宝塚を流れる武庫川にこんな話が残っています。なかなか雨が降らない天候が続くと、祈雨のお祈りをするのですが、ここでは、屠殺場から牛の頭と血を貰ってきて、川中の石の上に頭を置き、血を流すのです。川の神は怒り狂います。これによって雨が降るのです。人間は神の上手を行くのですが、この後には丁重にお祭りをすることは申すまでもありません。

 三輪明神 と呼ばれる大神神社の神は蛇の姿をしているとされます。これを仏教から見ますと、この神は畜生道か餓鬼道に落ちていると見えます。神官や有力氏子は自分の神が虫けら程度と言われて、これはいかん、神の身から逃れて仏になろうとしたのです。神社の中にお寺ができてくるのです。
 神仏習合と言うことが言われました。例えば、大日如来が日本では天照大神になったと言うことが言われました。またその反対に日本の神々が仏教の世界の仏達になったとする説もありました。

 中世の神社 有力な寺社や貴族は港湾をおさえ、航路を支配していました。流通の支配者だったのです。莫大な富を手に入れていたのです。瀬戸内海は京都の石清水八幡宮と賀茂・鴨社がおさえていました。北陸は日吉大社、太平洋側は熊野や伊勢神宮の領域でした。

 一宮や三宮と言う地名があります。中世には神社を格式の順に国守がお詣りすることがありました。また行政コストの節約として各地域の神社をまとめた総社を設けて、ここで全部の神社に詣ったことにすることも行われました。
 摂津 一宮は住吉大社と座摩神社。二宮は不明。総社 難波神社。
 河内 一宮は枚岡神社 二宮は片埜神社、三宮は恩地神社 総社は志気県主神社。
 和泉 一宮は大鳥大社 二宮は泉穴師神社 総社は泉井上神社内の総社。

 織田信長 はこれら寺社の勢力を旧勢力として排除して来ました。また自身の氏神である素盞嗚尊を祀る神社以外は目の敵にしました。畿内の神社は急いで祭神に素盞嗚尊、また神社名をそれらしい名に変えた所もあったようです。
 
江戸時代 寺請制度と言うものがありました。キリシタンでないことの証明を寺からもらうことが義務づけられていたのです。檀家制度になり、戸籍の管理をおこなったことになります。

 明治維新後 幕府支配の片棒を担いでいた寺院への反感、また尊皇思想の天皇親政もとで、思想統一のために国家神道として神社が重要視されました。しかし、明治末期には各字毎に鎮座していた神社を各村毎に集約する神社合祀が強行されました。一つには地方の役人が廃される神社の木々を売り払って、ポケットに入れることもあり、促進されたようですし、大きい神社は小さい神社を吸収できるので、氏子が増えることになり、賛成に廻ったようです。神社合祀が特に激しかったのは、伊勢神宮と日前国懸神宮の鎮座する三重県・和歌山県でした。両県で一万社あった神社は1300社にまで減りました。

 戦後 国家神道の考え方は排除され、各神社は民間化して宗教法人として登録されることになりました。
 最近、明治天皇を祀る明治神宮が統括団体の神社本庁を離脱する事件がありました。宮司の発言に神社庁がしつこく文句をつけたことがあったのです。神社本庁を離脱しますと、神社は氏子総会で自由にできるようになります。70万平方メートル、理屈では売却ができます。僅かな役員で山分けとなります。

 宗教法人? ほとんどの神社は宗教法人となっています。宗教法人の資格ですが、開祖がいて、教義があり、活動する設備があり、信者がいることです。神道には開祖はありません。教義としては、一応、明清な誠の心をもって神を祀ることです。これが教義とはいいにくいところです。祭祀法人と言う法人格を作ってはと言う考え方があります。そうすれば、地方でも創価学会の信者やキリスト教者とも折り合いがつけれるかも知れません。

 神社にお参りしてメリットがある? 何もなければ神社祭祀は2000年も続かなかったでしょう。卑近な例ですが、家内が登山が好きで百名山を目指していたのですが、下り道で転けたり、トラブル続きになって、お祓いを勧められたようで、近所の神社でやってもらいました。その際、巫女さんが持っている鈴の先がちぎれて飛んでしまい、神職さんはせき込んでお話もできないと言うことがあったそうです。そのおかげでしょうか、家内はすっかりトラブルから解消されたようです。

1.国生み神話

 日本の神話の中には国土を作るお話があります。イザナギ・イザナミの夫婦神が国を生むのです。
 また、出雲国風土記には、朝鮮半島など各地の余っている土地を引き寄せてくる国引きのお話があります。

 イザナギ・イザナミの夫婦神のお話。

 吾が身は成り成りて、成り合はざる処あり」と答へたまひき。ここにイザナギの命詔りたまはく、「我が身は成り成りて、成り余れる処あり。かれ、この吾が身の成り余れる処をもちて、汝が身の成り合はざる処にさし塞ぎて、国土を生み成さむとおもふ。

 淡路島と琵琶湖は相似形。

淡路市 伊弉諾神宮(淡路 淡路伊佐奈伎神社)  琵琶湖畔の多賀大社(近江 多何神社)
対照となる点は継体天皇が眠る今城塚古墳。この天皇は確実に現在につながる天皇の初代。継体王朝は近江・北陸・濃尾の勢力を代表し、その前の河内王朝は瀬戸内海・河内を代表する勢力、その妥協点が継体天皇であり、今城塚古墳ということをこの二つの神社は示しているように思われます。

 島々を生むのは、河内湖や大阪湾に島ができ、つながって国土を形成するイメージ。
天王寺区 生国魂神社(延喜式内社 摂津国東生郡 難波坐生国咲国魂神社)
 陸地を造り栄えさせる、このことを祀ったのが生国魂と咲国魂の神様。

『仁徳記』 おしてるや 難波の崎よ 出で立ちてわが国見れば 淡島 淤能碁呂島(オノゴロシマ)檳榔(アヂマサ)の 島も見ゆ さけつ島見ゆ   これらの島々は大阪湾の島とされる。

 生国魂神社が天王寺区生玉町に鎮座している。国生みに関わる神社ですが、近隣は子生みのホテルが多い場所です。この神社はもともと大阪城の生玉門(追手門)に鎮座していました。府庁前。秀吉が大坂城を造る際に現在地に遷されました。

平安時代に策定された延喜式神名帳と言う国家が祀るべき神社を一覧にした法律があります。これに摂津国東生郡の神社として難波坐生国咲国魂神社の名前で記載されています。

 生国魂神社は神武天皇が東征途上にここに到着した際に建立したと伝わっています。

 平安時代には大川沿いで八十島祭りが行われました。天皇の衣類を川端で振るのです。そうして大地を造った御霊を付着させ、天皇に移すと言う重要な祭りです。天皇の一世一代の祭りです。


2.蛭子誕生と葦舟で流すこと

 イザナギ命とイザナミ命は、「みとのまぐはひせむ」として、イザナミ命、先に「あなにやし、えをとこを」と言ひ、後にイザナギ命、「あなにやし、えをとめを」と言ひき。それで生まれたのが、水蛭子。骨のない子。この子は葦船に入れて流し去てき。女が先に言ったので、不具者が生まれたとする、男尊女卑の後世の考えが入った神話となっている。

 流された水蛭子が流れ着いたとの伝承を持つ神社として著名なのは、西宮市の西宮戎神社
 大阪では、堺市の石津太神社(イワヅタ)ですが、エビス神としては今宮戎神社が知られています。

 四天王寺前に「市」がたっており、そこに市神が祀られていましたが、これが今宮戎のルーツです。聖徳太子の建立とされています。

 エビス神はなぜ商売繁昌の神になったのでしょうか。元々漁民の奉じる神で大漁を祈ったのです。
神としては、鯨、イルカなど。また男の上向きの水死体、女の下向きの水死体をエビス神とした。
漁に行く途中に水死体を発見した場合は、旗を立てておき、帰りに港に引っ張ってくると言う。
豊漁から商売繁昌へは素直に理解できます。稲荷神は豊作から商売繁昌です。


3.国譲り 二番手の天若日子の物語り 一番手は次男の天穂日命、本命は長男の天忍穂耳命。

 イザナギ・イザナミの国生みの後には天照大神、月読尊、素盞嗚尊と言う三貴子が生まれます。
 天照大神は高天原を治め、天皇の祖先神とされます。素盞嗚尊は国土開拓の神である大国
主神の祖となります。大国主は国土を鋤や鍬を以て原野を田畑にし、これを葦原中国と言います。

 高天原の神々は豊饒の地である葦原中国を大国主から取り返えそうとします。国土を生んだイサナギ・イサナミの後継者の天照大神はいはば、生みの親、これを開拓した大国主は育ての親、生みの親が育ての親から子供を取り返そうとするのです。次男の天穂日で失敗したので、こんどは天若日子を遣わします。しかし大国主神の娘の下照比売を娶って自分が葦原中国の王たらんとしたのです。
 天若日子のお供に天探女がついて来ていました。

『万葉 0292』 久方の天(あま)の探女(さぐめ)が岩船の泊てし高津は浅(あ)せにけるかも
『摂津国風土記逸文』 難波の高津は、天稚彦が天くだった時、天稚彦について降った神、天探女が、磐船に乗ってここまで来た。天の磐船が泊まったというわけで、高津というのだ。

 神蹟 磐船旧蹟 味原に石船があり、往年、下照姫神または天探女降臨の跡と云う。とあります。
鶴橋駅の北西の天理教会の敷地にが建てられています。

 天若日子は高天原に復命をせずに、大王のふるまいをしていたので、高天原から投げ落とされた矢で殺されました。葬儀に下照比売の兄の阿遅鋤高日子根が来たのですが、天若日子とそっくりだったのです。死んだ天若日子が生き返ったと遺族が抱きついたので、怒って葬儀の小屋を蹴っ飛ばしたのです。小屋は美濃に飛んでいったといいます。

天若日子 大阪の神社には見えません。本当の名は三男の天津彦根命、この神は男乃宇刀神社や茅渟神社に祀られています。喪屋を飛ばされた美濃や天津彦根命の縁のある近江には天若日子は祀られています。

 阿遅鋤高日子根神 鶴見区放出 阿遲速雄神社(摂津東生)御所市 高鴨阿治須岐託彦根命神社(大和葛上)
 下照比売命 八尾市 長柄神社跡(河内若江 長柄神社) 生野区鶴橋 比賣許曾神社(摂津東生) 中央区 高津宮摂社比売古曽神社 玉造稲荷神社(姫の宮)

 放出地名については、熱田神宮の草薙剣を盗み出した新羅の坊主がこの地で嵐にあい、剣を放り出したとの伝承で生まれたと伝わっています。


4.天日槍(アメノヒボコ)と赤留比売(アカルヒメ) 製鉄王と逃げた女房。

 新羅の国王の子の天之日矛が農夫の持っていた赤玉を手に入れた。これを置いておくと美麗しき嬢子になった。摘妻ムカヒメとした。その嬢子、常に種々の珍味を設けて夫に食はした。ある日、天之日矛、心奢りて妻を詈るに、その女人の言うことに、「凡そ吾は、汝の妻となるべき女ではない。吾が祖の国に行かむ」といい、ひそかに小船に乗りて逃遁げ度り来て、難波に留まった。こは難波の比売碁曽社に坐す阿加流比売といふ神なり。

天日槍命 岸和田市 兵主神社(和泉和泉)   豊岡市 出石神社(但馬 伊豆志坐神社) 大和 穴師坐兵主神社
赤留比売命 平野区 赤留比売命神社(摂津東生)  東成区 比賣許曾神社(摂津東生)
中央区 高津宮摂社比売古曽神社  西淀川区 姫島神社  大分県 比賣語曽社

天日槍神は韓半島南部から渡来して来た製鉄鍛冶集団の祀る神だったようです。この神の子孫が息長帯比売で、河内に王朝を開いた応神天皇の母親ということになっています。
応神天皇の御陵とされるのが誉田山古墳、そこに誉田八幡宮があります。八幡宮は全国で10259 社、大阪では 74社。総本社は大分県の宇佐八幡宮。応神天皇、息長帯比売、比売神を祀ります。


5.神武東征

 国譲りの後は、神武天皇が九州から大和へやってくるのです。
 この国を統治するには日向より大和が望ましいとのことで、東征を行った。難波に来たとき、まず国土生成と繁栄の神を祭ったのです。難波坐生國咲國魂神社。

 神武軍は生駒越えをしようとして日下から登ると大和の長髄彦の待ち伏せにあい、敗退して、河内湖の戻りました。長髄彦が仕えていた物部氏の祖神の饒速日尊を祀る石切劔箭神社には長髄彦の妹の饒速日尊の奥さんの登美比売も祀られています。

登美比売 東大阪市 石切劔箭神社(河内河内)  広陵町 櫛玉比売命神社(大和)

神武経路 東大阪市 梶無神社(河内河内)  八尾市 竹淵神社   泉大津市 大津神社 
和泉市 男乃宇刀神社(和泉和泉) 聖神社(同)  泉南市 男神社(和泉日根) 

 河内湖に逃れた神武軍の船が風が強くなり梶が折れて漂着したのが、梶無神社です。
 また、追いかけられた神武達が隠れた竹林の跡が竹淵神社になっています。
 神武天皇は紀伊を回って大和に入ります。


6.神武天皇の后伝説。

 大和で橿原の宮を置いた神武天皇の妃探しが行われます。

『日本書記』葛城地方の事代主神が三島溝咋耳命の娘の玉櫛媛と結婚し、媛踏鞴五十鈴媛命を生み、この女性が皇后となり、二代目の綏靖天皇の母親となります。
『古事記』美和の大物主神、丹塗矢に化けて、三島溝咋の娘、勢夜陀多良比売、大便の時、流れ下り、陰を突きき。その矢を床辺に置けば、麗しい男になり、富登多多良伊須須岐比売が生まれた。

 皇后 茨木市 溝咋神社(摂津島下)
事代主 御所市 鴨都波八重事代主命神社(大和葛上)
大物主 桜井市 大神神社(大和磯城)

 神武天皇の皇后は在来の有力な豪族の娘となります。融和を図ったのでしょう。

 神武天皇陵は橿原神宮の奥とされていますが、神宮の西側の山中に神武天皇の墓とされる場所があり、生国魂神社が鎮座していました。


7.物部氏の遠祖饒速日尊(ニギハヤヒ)の降臨  神武天皇以前の大王

 鳥越憲三郎氏によると、九州遠賀川流域にいた物部一族が東遷、堺の大浜に上陸、そこから河内湖周辺や大和に入った。盟主の饒速日尊は大和の梟師の長髄彦の妹を娶り、大和に君臨。

 八尾に来た物部グループは、先ず、食物の神を祭りました。恩地神社です。上町台地には磐船神社を祀った。後に生駒山北部の饒速日山頂に遷しました。交野の物部氏も私市に磐船神社を祀りました。
 八尾市 恩地神社(河内高安)
 恩地神社の祭礼は御輿を堺市大浜に担いでいくものがありました。物部の上陸地と推測されます。
その祭りの間、留守を守ったのが枚岡神社の神主です。枚岡神社は藤原氏(中臣氏)の氏神です。
奈良の春日大社は藤原氏の氏神の総本宮となっていますが、常陸の香取神宮、下総の鹿島神宮と枚方神社の三社からの神々を勧請したのが春日大社です。中臣氏は物部氏の配下の氏族だった。

東大阪市 枚岡神社(河内河内) 鹿嶋市 鹿嶋神宮(常陸鹿嶋)
佐原市 香取神宮(下総香取) 奈良市 春日大社(春日祭神四座 大和添上)

 崇仏戦争 物部ー蘇我 時代の天皇候補を争った。
物部守屋と蘇我馬子との戦いで守屋が敗北、饒速日山山頂の奧宮は下に降ろされた。
生駒山の饒速日山頂 → 石切神社奧宮 → 石切劔箭神社(河内河内)
              → 大和 長弓寺内の伊弉諾神社(登彌神社 大和添下)

八尾市 物部関連の式内社 栗栖神社 跡部神社 渋川神社   樟本神社
                  弓削神社 矢作神社 都夫久美神社

 弓削道鏡  称徳女帝に気に入られて法王に昇った。宇佐神宮の偽託宣で天皇位を窺うも和気清麻呂 の働きで失敗、女帝の死とともに失脚。河内の弓削神社付近で誕生。女帝は由義宮に詣でた。

 余談:浪花の三種の神器 石切劔箭神社 玉祖神社 若江鏡神社


8.日本武尊と太陽の道(北緯34度32分)

 日本武尊は九州の熊襲を平定したり、東の蝦夷を平定すると言う活躍を見せますが、最後には伊吹山の神の怒りにふれて伊勢の能褒野でなくなります。魂は白鳥になって西へ飛んでいきます。

 大鳥大社←古市の白鳥陵古墳←御所の事弾原白鳥陵←能褒野王塚古墳(日本武尊崩御地)
 大鳥大社に飛来したと伝わり、祭神として祭られています。祭られています。

大鳥大社はいわゆる太陽の道のライン上にあります。伊勢湾の神島から大和の檜原神社、箸墓古墳、堺市日置荘の萩原天神、そうして大鳥大社、淡路島の伊勢久留麻神社とつながっています。
檜原のヒ、箸墓の卑弥呼のヒ、日置、これらのヒは太陽の日と同じ発音です。日はhi、火はfi。

 伊勢久留馬神社(淡路)ー大鳥神社(和泉大鳥)−萩原天神社ー大坂(穴虫峠)−箸墓−桧原神社


9.坐摩神社 イカシリ  摂津国西成郡 延喜式大社

 仁徳天皇の皇女にここの神が「吾は住吉大神の御魂」で、「イカシリの神」と申す。神主の津守宿禰に祀らせるように。」と託宣あった。 住吉大神が今の住吉大社の場所に祀られる前には石町の坐摩神社の御旅所に祀られていたのです。イカシリとは、沈石四顆、船を止める碇のことです。
 この神社も大坂城築城の際に移転をさされ、伊藤忠商事の西側の旧渡辺町に祀られています。
 移転した跡には磐坐が残っています。神功皇后が腰をおろしたという巨石です。
 住吉の神が住吉へ遷った後には、宮の守護神として、井戸や泉の神と宅地が祀られたようです。
   中央区 坐摩神社(摂津西成)   石町 元の鎮座地(お旅所) 皇后の腰掛け石

 神功皇后が朝鮮遠征後、誉田別皇子を生み、皇子と共に九州から凱旋、カゴ坂王・忍熊王を排除。
務古水門に帰ってきて、天照大神の荒魂を広田神社、稚日女尊を生田神社に、事代主神を長田神社に祭った。さらに表筒男、中筒男、底筒男の三神の和魂を大津の渟中倉に祭ったのが住吉大社

和泉市 泉井上神社(和泉和泉) 神功皇后が行くと泉が湧きだした。
茨木市 疣水磯良神社 神功皇后の渡韓を助けたのが安曇氏で祖神が磯良神。
堺市 方違神社 神功皇后の帰還時、住吉の大神の御託宣によって天神地祇を祭った。



10.仁徳天皇

 聖帝伝説 高き屋に のぼりて見れば 煙たつ 民のかまどは にぎはひにけり(新古707)
 上町台地の高台に建つ高津宮から国見をおこなった。
      高津宮の候補地 東高津宮 玉造稲荷神社
      孝徳天皇の難波宮の下の遺構 上古の聖王の跡に従い天下を治めよう。

 難波堀江の掘削
 中百舌鳥の大山古墳で知られる仁徳天皇は難波に宮を置き、難波堀江を掘り、東の海の水を大坂湾に直接流す工事を行いました。現在の大川です。難波堀江には現在の大和川と淀川の水が流れており、相当な水量だったのでしょう。
 高津宮の北を掘って河内湖の水を西の海にひいた。難波堀江、今の大川。
これで内海に船が入れるようになり、難波が一挙に大陸や半島・九州と直結し、重要性が高まった。

中百舌鳥や古市に大きい古墳を築いた倭の五王が南宋に朝貢したのです。

 茨田提の造営  淀川の水が河内湖になだれ込むのを防ぐために堤防を造営。
茨田提を造ろうとしても、二箇所が壊れてしまう。天皇の夢に人柱を立てれば完成するとお告げがあった。一人は泣き泣き従ったが、もう一人はヒサゴを沈めることが出来たら本当の河神、できなかったら偽の神だから従わないと試した。沈まなかったが完成した。二箇所を断間という。
茨田提の造営 門真市 堤根神社(河内茨田) 寝屋川市 太間天満宮

 英雄色を好む
 父の応神天皇が日向から髪長媛を求め、桑津邑に置いた。仁徳はこの姫とさっさと懇ろになった。
生まれたのが大草香皇子、日向から草香、神武天皇のコースを示しているようだ。
 磐之姫皇后が祭祀のために柏の葉をとりに潮岬まで行っている間、八田皇女を宮中に入れた。
       磐之姫命 東高津宮     髪長媛 桑津天神社

 巨木伝説
兎寸河の西に一本の高い樹木があった。その樹木に朝日があたれば影は淡路島におよび、夕日があたればその影は高安山を越えた。ある日、この樹木を伐って枯野と呼ばれる船を作り、朝な夕なに淡路島の清水を汲んで、その聖水を天皇に献上した。この船が壊れてから、その廃材を焼いて塩を作り、その時、燃えない材木があったので琴を作ったところ、素晴らしい音色を発し、遠くの村里にまで響きわたった。
巨木伝説 高石市 等乃伎神社(和泉大鳥)  静岡 軽野神社
枯野・軽野 カヌーの語源。日本から東南アジアへ伝わり、戻って来た。


11.雄略天皇

 邪馬台国と女王が大陸に遣いを出してから150年ほど途絶えてから倭の五王と言われる大王
が南宋に遣いを出していた。最後の王、倭王武が雄略天皇のこととされています。幼武尊です。
 難波の宮跡の発掘で、NHKの東側から倉庫群が発掘されており、一棟だけ再建されている。
これなどは雄略天皇の頃の建築。30坪の倉庫が16棟、壮観だった。

 凡河内直香賜と釆女を宗像の神を祭らせるために遣わした。神域に入って今にも行事を行おうとしている釆女を犯した。天皇は「神を祭る時は慎みがなくてはならない。」として、難波日鷹吉士を遣わして、香賜を殺すように命じた。 吹田市 吉士部神社

釆女山辺小嶋子 歯田根命が小嶋子を奸すも、馬太刀を以て罪を祓除い許される。

釆女 木工韋那部真根、フンドシ姿の釆女の相撲に気をとられ、細工の手を誤り、死罪に処せられる所を傍輩の歌により救われる。

 新羅が百済の城をとったり、高句麗が倭への貢ぎ物を運ぶのを邪魔したりするので、新羅を討とうとした。紀小弓宿禰などを大将として派遣した。紀小弓宿禰はめざましい活躍をしたが、病没した。
天皇は紀小弓を称えて、淡輪邑に墓を造らせた。西小山陵古墳から半島系の冑が出ている。
 紀小弓宿禰 岬町淡輪 船守神社
 住吉大社からシハツミチを東に行き、大和に入る。渡来人は赤留比売神社で酒を接待されて、やっと仲間(日本人)になれる。爲呉客道通磯齒津路。名呉坂。途中に湯里。呉は喜連。
    酒を醸す 住吉区 神須牟地神社(摂津住吉)  東住吉区 中臣須牟地神社(同)
    新羅美女の酌で 平野区 赤留比売神社(同)



12.聖徳太子

 四天王寺の建立
中央区 玉造稲荷神社 秦川勝、大連を切り、玉造の東岸上に覆奏。即ち営を以て四天王寺となす。
旭区 大宮神社 建立の候補地であったがこの地は洪水が多く、今の天王寺の地に建立した。
現四天王寺 摂政となった後に、この年はじめて四天王寺を難波の荒陵の地に造りはじめた。
四天王寺 願成就宮(守屋祠) 物部守屋の邸宅を没収、使用人を奴婢として建立。

 四天王寺七社 大江、上之宮、小儀(五條宮)、土塔、河掘、堀越、久保
大江神社 天王寺区夕陽丘町 上之宮社 天王寺区上之宮町
小儀神社(五條宮) 天王寺区真法院町 土塔 四天王寺の南門前。退転。
河堀稲生神社 天王寺区大道 堀越神社 天王寺区堀越町
久保神社 天王寺区勝山



13.大化の改新による難波遷都

 乙巳の変の後、孝徳天皇は難波に宮を遷した。仏法を尊んで神々の祭りを軽んじた。神を軽んじたとは、「生国魂社のの木を切らせたこと」などがこれである。日本書紀
 宮の四隅を守る神が置かれた。
     北西 北区 大阪天満宮の中の大将軍社
     南東 東成区 八王子神社(百済神社)(高津宮の守護神と言う)



14.和気清麻呂の運河造営の失敗

摂津職(官制知事)になった和気清麿は河内湖の水を大阪湾にショートカットしようとして四天王寺の南側に運河を計画、掘削を進めたが岩盤堅く失敗。その名残が神社名などに残る。
天王寺区 堀越神社 天王寺区 河堀稲生神社 茶臼山古墳の河底池



15.浪速三神明

 平将門の反乱(承平天慶の乱)で父平国香の子の平貞盛りが東国へ追討に出る際、戦勝を祈願して天照大神を奉斉した。朝日神明宮である。南大江公園、今此花区春日出中。
 日中神明宮は江戸時代に京都から勧請された。平野町にあったが、今は鶴町。
 夕日神明宮は義経の勧請とされる。西天満にあったが現在は露天神の内。



16.熊野王子社  熊野詣では平安時代から流行の兆し。

 窪津王子−堀越神社  坂口王子−朝日神明宮 郡戸王子−(高津宮) 上野王子−上之宮
阿倍野王子ー同神社  津守王子ー住吉大社摂社新宮社


17.渡来人の巣窟 難波

百済の 王仁博士 応神天皇十五年来邦 漢字を伝えたと伝わる。
   王仁博士 天王寺区 東高津宮摂社王仁神社
   高石市 高石神社 『和泉名所図絵』には、高志の祖、王仁を祀ると記せり。


   新羅 浪速区 白木神社(元北区北渡辺 新羅江)  河南町 白木神社跡


   高句麗 柏原市 大狛神社(河内大縣)  八尾市 許麻神社(河内渋川)


   漢 交野市 機物神社 長安の漢人が居住したと伝わる。


18.その他

ポックリ神社 坐摩神社 大鳥大社 等乃木神社  葛葉稲荷神社
ビックリ神社 難波八坂神社 大獅子殿にビックリ。
歯痛 北区 歯神社 平野区 川辺八幡神社摂社歯神稲荷社
文人 上田秋成 淀川区 香具波志神社 井原西鶴 松原市 柴籬神社
近松門左衛門の曾根崎心中 お初と徳兵衛 北区 露天神社
豊臣秀吉 中央区 豊國神社
豊臣秀頼 玉造稲荷神社摂社秀頼公胞衣塚大明神
淀君 鵲森宮摂社淀君社

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